浜田民部の歴史を感じる、左衛門坂の魅力。
名前 |
左衛門坂の石碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.kagoshima.lg.jp/bunka/bunka/bunkazai/index.html |
評価 |
5.0 |
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左衛門坂の名前は一説に浜田民部左衛門さんの家があったからその名からサエモン坂、それがなまって“セモン坂”または“サヨン坂”となったといわれています。昔は急な坂道で“こん坂で転っと、大怪我をして治らん”という言い伝えがあったそうです。浜田民部左衛門さんとは本名浜田 経重(はまだ つねしげ)と言い、1534年生まれで薩摩国島津氏家臣だったそうです。別名は重門、通称は民部左衛門と呼ばれていたそうです。一生の間に39回戦に出陣し、上げた首級40以上で敵地へ忍び入る事13回に及ぶという功臣であったそうです。元々は村田経定の附衆中として功を為していたそうですがが、その武功の多さに感心した島津義久公が召し出し直臣としたそうです。豊臣秀吉による九州征伐の際、その武功を聞いた秀吉は経重を自身の前に召しだして、金房兵衛尉政次作の槍と知行五百石を与えたそうです。しかしその1年ほど後に五百石は義久へと返上し、元々の百石取りに甘んじたそうです。慶長16年に義久公が死去するとともに殉死したそうです。後醍院宗重の嫡子である高橋頼次は、武功多く秀吉も名を知る経重の清貧ぶりを見て自身を恥ずかしく思い、また島津で立身することは叶わないと感じ出奔し池田輝政に仕えたとの逸話があるそうです。島津家中には「薩摩の百石は よその二千石」という諺は、この逸話が元になったそうです。