西南学院隣の感動遺構。
元寇防塁の特徴
元寇防塁は西南学院大学近くで、かつての海岸線があった場所です。
歴史の教科書に載った元寇防塁遺跡を訪れると感動がありました。
モンゴル族の襲来に備えて築かれた防塁の跡が間近で見学できます。
2019年3月訪問2017年から3年間、福岡単身赴任で百道に住んでいたので、休日は史跡や遺構を巡る事が多かった元寇防塁は、鎌倉時代の「元寇(蒙古襲来)」に備えて博多湾沿いに築かれた軍事遺構である先日は足を延ばして生の松原海岸や小戸地区にある遺構を巡ったが、今回は時間が無く近所を歩くここは西南学院大学体育館の南側、元寇神社に隣接する地区に残され、復元された遺構で、二列構造で塹壕のような形態をしている当時の海岸線がこの辺りだったことにも驚いた。
13世紀後半の元寇の遺構。長さ30メートル。幅5メートル。高さ2メートル弱。石を積み上げて作られている。
福岡市と周辺に多く残る元寇防塁のひとつ。こちらは元寇750年慰霊祭の神社なども置かれ、公園のようになっています。ここに現在残っている防塁は高さ1メートルほどにすぎませんが、当時は2~3メートルに積み上げられた石垣のまわりで激しい戦闘が行われたのでしょう。後の戦国時代のように防御の技術も発展していない当時、乏しい情報をもとに元の大軍相手に奮戦した鎌倉武士たちの様子が目に浮かびます。なお防塁跡は、隣接する西南大学の敷地内にも延びています。
市街地に突如として現れる750年前の史跡。20kmにも渡る防御壁の一部。「元寇防塁」は中山平次郎の命名で、石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。以下教育委員会の資料より:13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府がこれに応じなかったため、1274年博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し九州の家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。幕府は、元の再度の来襲に備えて、九州各地の御家人に命じて、1276年3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約 20kmにわたる石築地(元寇防)を築かせ、その場所を警備させました。防は各国の分担地区によってその構造が違うことが分かっています。石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどのエ法が採用されています。防塁の高さは2.5~3mほどと考えられます。この西新地区(当時の百道原)分担国は分かっていません。防の構造は粘土による基礎工事を行い、基底部幅 3.5mの前面と後面に石積みをし、その間を砂と粘土でつめています。石材の節約をはかった独特の工法となっています。1281年元は再び日本を攻めましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃にはばまれ、博多の地には上陸できませんでした(弘安の役)。元寇防は、1931年(昭和6年)、国の史跡に指定され、保存されています。
なんということもない場所であるが、つまりはこのあたりがかつての海岸線だったと言うことだ。800年ぐらい昔に戻って、ここに立つと、目の前に広大な博多湾の海辺が広がっていたわけだ。人間がどんどん山や川や海岸線など地形を変えてゆくんだな。
普通に住宅街にありました。
「元寇防塁」は現代の呼び名。本来は「石築地(いしついじ)」と呼ばれていた。現代でもよく見られる石組と大差無く、感想としては、正直「こんなもんか」だが、よくよく考えて見ると、800年も前に今でも通用する様な石垣を総延長20kmも築いた事は凄いと思う。今では海岸線が埋め立てられ、海からは遠く離れて居るが、この地区では実際に激戦があった様だ。遠方から此処だけを目的に訪れるのは、絶対にお勧めしないが、幸い近くに素晴らしい福岡市立博物館があるので、そこに行くついでが良。蛇足だか目の前のマンションの名前が「西新防塁」って笑。
この先は海だったんだ。と正直驚きました。埋め立てすごいな福岡県。
ここが海岸だったんですね。蒙古襲来に備えて作ったんだと改めて当時の人たちの営みに思いを馳せることができます。
| 名前 |
元寇防塁 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
092-711-4666 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
綺麗に積まれた防塁には感心しました。当時から工法も確立されていたのでしょうね。福岡城などの石垣と違い、石を積み上げただけのもので、ひとつひとつがそんなに大きくない。鎌倉時代らしい石垣です。この上に鎌倉武士が座っていたかと想像するだけで面白くなりました。