盛岡の安倍館で歴史を感じる。
安倍宗任の墓の特徴
安倍宗任の墓は元内閣総理大臣安倍晋三の末裔に関わる場所です。
東北出身者の歴史的な流転に思いを馳せることができる史跡です。
盛岡市の安倍館にある祠とのつながりを感じるスポットです。
結果として、やっと訪問(墓参)出来ました。盛岡出生、義経ファンから安倍、奥州藤原氏贔屓の私にとって、一番遠くて行くのは最後になる、と覚悟していました。期せずして?宗像神社巡りをすることとなり、ついに訪問が叶いました。昔過ぎて、どこに住まわれ、どういう生活をしていたかの全く痕跡はありませんが、お墓があって、それを守ってきて頂いた島民の皆様に感謝です。前九年の役のあと、最初伊予、次いでこの島に流され、ここで亡くなったとすれば、何と長く、寂しい人生であったか?ただ、子孫は各地に散り、息子たちは九州や長門の豪族、御息女は再び奥州に戻り?藤原基衡の妻になったというと、やはり奥州一番の名門の面目躍如と感動すら覚えます。何より、平成の御代になって末裔がついに天下を取ったのですから、本当に凄いと思います!(^-^)/
わかりづらい場所にあった。危うく民家の敷地を横切ろうとしちゃいました。
お墓があるだけですが東北の人がこんなところに流されてきたなんて知らなかったので、数々のご苦労に思いを馳せ、初めて知った感動がありました。
見つけにくい場所😣
盛岡市の安倍館に祠が有ります。盛岡市内には、前九年の地名も残っています。まさか、四国愛媛から更に流されて、この地で亡くなったとは、訪れるまで知りませんでした。東北人として、どんな想いで果てたのかと想像すると、込み上げるものを感じました。
名前 |
安倍宗任の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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安倍宗任の44代目の末裔は、元内閣総理大臣「安倍晋三」だそうです。安倍宗任は、もともと奥州の豪族で「前九年の役(1051〜1062年)」にて源頼義・義家父子に敗れ京都に連行されました。その後、伊予国を経てここ大島に流罪なり、天仁元年(1108年)2月4日77歳でこの地で亡くなりました。安倍宗任の三男「安倍季任」は、肥前の松浦一族と姻戚関係になりました。その子 松浦高俊は、平家方の水軍として源平の戦い「治承・寿永の乱」に参戦しましたが敗北し、現在の山口県長門市油谷に流罪になりました。高俊の娘は、平知盛の三男 平知忠に嫁ぎましたが源氏の迫害から逃れるため、知忠一族は妻の祖父「安倍季任」の「安倍」を名乗ったとされています。