歴史を感じる吉田城跡。
吉田城跡の特徴
本丸御殿は元和8年(1622年)に完成した歴史的建物です。
防御と監視の隅櫓、千貫櫓や鉄櫓が特徴の城跡です。
徳川家康の三河統一戦にゆかりのある重要な歴史的な場所です。
吉田城は続日本百名城に認定されている。かつての吉田城は現在は豊橋公園として整備されているが、明治維新後は陸軍駐屯地となっていたこともあり改変が進み、城らしさを感じることができるのは本丸部分くらいである。遺構としては本丸周囲の石垣と堀程度しか残っていないが、1954年(昭和29年)に鉄櫓が模擬再建されている。吉田城は前身は戦国時代(16世紀初頭)に築かれた。江戸時代は三河吉田藩の藩庁となった。三河吉田藩(3〜8万石)は頻繁に藩主が入れ替わったが、譜代大名が藩主を務めた。幕末時藩主は松平氏。正直、あまり遺構は残っておらず見どころも少ないが、豊橋市の中心部にあり、日曜日にはけっこうな数の市民が訪れていた。
吉田城は戦国期の城としては有名だが、城跡は今ではあまり目立たない。しかし、本丸跡は、立派な石垣や堀が残っている。川の近くにある、豊橋公園の駐車場から歩いてすぐ。鉄櫓はコンクリートの復元で、人も少ないが、見る価値がある。
平日の16:00過ぎだったので、鉄櫓に入る事は出来なかったのですが、渋い感じの石垣・空堀が良かったです。石垣修復工事のタイミングだったので、鉄櫓の近くから、修復作業の様子が見えました。TVで見たように、石に番号が記入してあり、「細かな作業だなぁ」と感じました。本丸から見る豊川も良い感じでした。
豊橋公園にある吉田城 本丸跡地本丸は無くなっていますが城の遺構は残っており、石垣や説明碑を見て周るのが楽しいです。吉田城の前身は牧野古白によって1496年頃に築かれた今橋城です。その後、今橋の地名は吉田に改められました。武将たちによる激しい争奪戦が繰り広げられたのち、松平(徳川)家康は酒井忠次を城代に置きました。1590年豊臣秀吉の命令で家康が関東に移ると池田照政(輝政)が吉田城主となり、城域の拡張や城下町の整備を行いました。最盛期の吉田城は全国屈指の規模を誇り、歴代藩主には幕府の要職を務めるものが多くいたことから『出世城』とも呼ばれています。豊橋市hp参照石垣や土塁など多くの遺構が残っており、1954年に模擬復興された鉄櫓(くろがねやぐら)が吉田城の象徴としてかつての威容を誇っています。また城址の主要部分は2021年に豊橋市指定史跡となりました。
三河と遠州の中間にあり、戦国時代においては要所となる重要な城。徳川家康重臣酒井忠次が城主となり、家康関東移封後は池田輝政が城主となり、城の大改修と規模を拡大。この城がなければ姫路城はないと言える。
⭐️本丸には本丸御殿❗️⭐️四隅には防御と監視の隅櫓/千貫櫓・辰巳櫓・入道櫓・鉄櫓‼️⭐️本丸石垣…鉄櫓下河川側の石垣は池田照政期の1590年頃の野面積の乱積で古風です😲本丸御殿は元和8年(1622年)完成、将軍の上洛用に建造も1707年(宝永4年)の宝永地震で倒壊し必要性なくなり再建されず、将軍の3代家光以降は上洛せず不要🤔
南側の石垣を修復中で本丸に入るには北か東からになります(2022年6月現在)。勝手なことを申してしまうと、このさい四隅にあったという櫓を全て復元されるとさぞかし立派になるんじゃないかと。
続日本100名城No.151。争奪戦の後、徳川の城となる。永正二年(1505)に今川氏親が牧野古白に命じて築いた今橋城が前身とされる。周辺勢力による城の争奪戦がくり返されたが、氏親の子の義元の代には今川氏の城となり、吉田城と呼ばれた。義元の死後、徳川家康が奪い、酒井忠次を城主に配する。徳川氏の関東移封後は、池田輝政が入城して近世城郭とした。素晴らしいお城です。
徳川家康の三河統一戦ゆかりの城1565年家康に攻められ開城。城主に徳川四天王の酒井忠次が置かれたことでも有名です。ナビによりますが、土手に案内されでしまいました。駐車場にキチンと停めたい方は、美術館を行き先にセットされた方が良いみたいです。
名前 |
吉田城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0532-51-2650 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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戦国時代から江戸時代にかけて、名だたる武将たちが争奪戦を繰り広げた重要な城郭の中心部。豊川を天然の堀として利用し、後ろ堅固な平城として設計されました。外周部は石垣で囲まれており、当時の城郭の壮大な規模と高度な技術を感じることができます。本丸の北西隅には、1954年に再建された鉄櫓があります。鉄櫓は天守の代わりとして機能し、内部には吉田城の歴史資料が展示されています。また、石垣には築城に関わった武士や石工の刻印が見られます。本丸の南側には冠木門跡があり、石垣で囲まれた土橋が特徴です。冠木門は本丸への正門であり、周囲には多数の石垣が積まれています。また、冠木門を渡ると南御多門跡があり、石垣で枡形門が形成されています。ここは吉田城で最も厳重な虎口となっていました。さらに、本丸の東側には裏御門跡があり、土橋と石垣で形成された枡形が特徴です。敵の侵入を防ぐための工夫が施されています。