歴史を語る一里塚、地蔵堂の旅。
梶原一里塚跡/地蔵堂の特徴
西国街道に位置する一里塚で、歴史を感じられる場所です。
水あがりの地蔵さんが祀られている堂宇があります。
榎を植えた道標としての役割を果たしている一里塚跡です。
桧尾川バス停から長岡京駅まで西国街道を歩きました。
西国街道の一里塚の一つ。
ここがいかに重要な街道であったか, 語りかけて来るようです。🤔
この写真は、一里塚跡に建つ「地蔵堂」です。この辺りは「一里坂」という緩い坂となっています。古い絵図には山側に「一里塚」のある様子が描かれています。古代の地方制度として定められた「五畿七道」のうちの「山陽道」は、道幅が10m以上あった最大幅の「大路」であった。路盤は、土と砂を交互に敷きながら、木枠の中に詰めて、木の棒で突き固める、中国由来の「版築(はんちく)」の技法を使っていた。そのため路盤はそう簡単に傷むものではなかった。(最近、解体修理が行われた「薬師寺東塔」の基礎もこの技法で突き固められていて、千三百年以上も塔を支えていたことが調査で分かっています。)何しろ手間ひまがかかりますから、古代の人々は、小学生が校庭から校舎へと戻るときに早く行こうと校庭の最短コースの直線で帰ろうとするのと同じで、「合理的」に直線道をつくっています。奈良から出発した道が「山崎の渡し」に上陸後、ほぼ直線で梶原古墳群の最南端めがけて進んできて、この辺りで方向を変える。西に見通せる小高い天神山(昼神山)古墳群の南の裾(すそ)を目指して直進していった。この一里塚の場所は、近世(江戸時代)に新たにつくられた道です。幕府の戦略上、狭い道がうねうねと曲がりくねっている。西国の大名が「参勤交代」のときに船を使うものは、「大坂」まで船に乗り、そこから、川向こうの「京街道」を通って京都伏見へ向かう。他の大名は、にぎやかな「大坂」を避けて、「芦屋」から、内陸を進む「西国街道」を利用した。庶民(農民・町人)の多くは、お金はかかるが、早くて快適な「新幹線」ともいえる「三十石船」に乗って淀川を行き来していた点は忘れてはいけない。
水あがりの地蔵さんの堂宇がある。
説明の標識がある。pokemongoのジムがある。
街道の1里(約4km)ごとに榎を植え、路程の目印とした一里塚のあったところ。江戸時代の街道絵図にも、塚前に茶店があったことなど、当時の様子が描かれている。現在は、淀川沿いの中村から水害を逃れ、ここに落ち着かれたという「水あがりの地蔵さん」の地蔵堂が建っている。
名前 |
梶原一里塚跡/地蔵堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
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