室町幕府発祥の地、足利尊氏邸。
足利尊氏邸・等持寺跡の特徴
歴史的な石碑と説明板が設置され、学びが深まります。
高倉御池交差点から徒歩50m、便利なアクセスが魅力です。
足利尊氏邸・等持寺跡は室町幕府の政治が行われた場所です。
足利高氏の邸宅で、室町幕府発祥の地でもある。後に等持寺となった。この等持寺は当時の名刹だったが、応仁の乱以降の室町幕府の衰えとともに寺も衰え、別院だった北区の等持院に吸収されてしまったとか。等持寺は今は跡しか残っていないのだが、御池通を挟んで南側にある御所八幡宮は尊氏の邸宅および等持寺を護る神社だったそうだ。なお説明書きによると、「等持寺」という3文字の中には「寺」が3つ登場する。尊氏が3つの寺を創建したいとの「叶わなかった夢」が3文字の中に込められているらしい。
京都府京都市中京区御池通高倉上る東側(保事協会館前)にある足利尊氏の邸宅跡があり、ここで室町幕府の政治をした場所です。足利尊氏邸・等持寺跡(あしかがたかうじてい・とうじじあと)は、室町幕府を開いた初代室町将軍 足利尊氏の邸宅跡です。「二条万里小路第」と称され、三条坊門を挟んだ南側に、室町幕府の政務を任せていた弟 足利直義の邸「三条坊門第」があり、「室町幕府発祥の地」とも称されています。足利尊氏の死後は、足利家の菩提寺 等持寺の境内となっています。中京区御池通高倉上ル東側の京都府保険事業共同組合 保事協会館前に石碑が立っています。アクセスは、烏丸御池駅1出口から徒歩約4分京都市役所前駅3出口から徒歩約8分丸太町(京都市営)駅7出口から徒歩約10分。
高倉御池交差点から北へ50m歩くと東側の京都府保健事業協同組合・保事協会館の玄関先の端に石碑と説明板が立てられてる。自動車は建物の向かいのタイムズ有料駐車場を利用しよう。ここから南へ300m先の京都文化博物館2階の総合展示室で「足利将軍、京都に住まう。」展が9月中旬までの期間限定で開催されており、御所八幡宮と共にこの石碑が紹介案内されてる。案内が無ければ存在を知らずに去るところだったので感謝。室町幕府初代将軍の足利尊氏の「三条坊門第(二条万里小路第)」や後継者の歴代将軍の北山第や室町第等の些細を京都文化博物館で知る事ができる。【2024年葉月筆】
御池通高倉上る東側の保事協会館前にあるのが「足利尊氏邸・等持寺跡(あしかがたかうじてい・とうじじあと)」になります。この地には足利尊氏(1305年~1358)年の三条坊門第がありました。尊氏はこの邸宅で政務を執り、死去しました。邸宅はのちに等持寺という寺院に改められました。その後、応仁・文明の乱(1467年~1477年)以降は衰退し、別院であった等持院(北区)に合併されました。この石碑は足利尊氏邸・等持寺の跡を示すもになります。今回(2022年5月)、以前の口コミに追記をしようと思ったら口コミが消えているので再度、書き込みしてみました。以前の訪問時は、植え込みの木によりよく石碑が見えませんでした。見にくいのは今回も変わりませんでしたがツツジの植え込みだったのですね。ツツジが綺麗でした。2025年9月再訪この地には足利尊氏(1305年~1358)年が政務を執った邸宅である二条万里小路第があった場所になります。三条坊門小路を挟んだ南側には、室町幕府の政務を任せていた弟の足利義直の邸宅である三条坊門第がありました。足利義直(1307年~1352年)の邸宅である三条坊門第の北側に古先印元を開山とした創建した持仏堂として等持寺がありました。これが等持寺の始まりとされる。その後、足利義直の死後に尊氏が新たに夢窓礎石を開山として、足利氏の菩提寺である別院北等持寺を建立したとされている。等持寺は、柳馬場の本寺と別院の2寺あったが応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失後、別院・等持院が本寺の等持寺を合併しました。足利尊氏の二条万里小路第は、尊氏の死後、足利氏の菩提寺である「等持寺(とうじじ)」の境内となり寺院に改められた。尊氏は三つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には三つの「寺」の字が含まれることになったと伝えられています。現在、近場に残るっている「御所八幡宮」は、尊氏邸の鎮守社であったという。
| 名前 |
足利尊氏邸・等持寺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na022.html |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
〒604-0826 京都府京都市中京区高倉通御池上る柊町583−2 |
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室町幕府発祥の地と言えば確かにそうなのか。足利尊氏の邸宅がこのあたりにあったのだそうです。後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められたのだそうですが、尊氏は三つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には三つの「寺」の字が含まれることになったと伝えられているのだそうな。その話は初めて知りました。その等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集めましたが、応仁・文明の大乱以降次第に衰退し、結局は別院であった等持院(北区)に合併されてしまったとのこと。しかし流石は京都。町を少し歩けば歴史の記憶がそこかしこにありますね。