宗像三女神の清々しい神社。
厳島神社の特徴
厳島神社は創建1300年以上の歴史がある風格ある神社です。
御祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三女神です。
宮司さんは清々しい人間性で、嬉しい御朱印がいただけます。
2025年の初詣で行きましたどこも人でいっぱいだったのでグーグルマップで調べてみましたこじんまりとした神社でした。
厳島神社です駐車場🅿有りトイレ🚻有り車椅子♿難しいです階段登ったら境内で写真撮影に夢中でカメラ向けたまま拝殿を全体映るように後ろに下がっていたら階段踏み外して!あっ!!靴が脱げて身体がバランス崩し落ちたと思った瞬間フワッと体勢が戻りました。きっと神様が腰を支えてくれたと思います。不思議と転げ落ちませんでした🐈ここの厳島神社が白川伯王の本家であり広島の厳島神社の元宮であり白川伯王家の源流の一族の神社です。白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元。白川家(しらかわけ)は花山源氏を出自とする堂上家である。花山天皇の皇孫の延信王(のぶざねおう)が源姓を賜り臣籍降下して神祇官の長官である神祇伯に任官されて以降、その子孫が神祇伯を世襲するようになったために「伯家」とも、また、神祇伯に就任してからは王氏に復するのが慣例であったことから「白川王家」とも呼ばれた。wikiより。白川家の特徴は、神祇伯(神事を仕切る長官でお偉いさんのこと)の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗られたことです。「王」の位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付いている人が皇族でもないのに、王の称号を貰え神祇伯の世襲を行えたのは白川家にのみです。白川伯王は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が、始皇帝の姓である「臝」(エイ)を許され「瀛」(イン)を名乗り、その始皇帝の血を持った一族と姻戚関係で結ばれ白族は後に白川伯王↓博多櫛田神社の主祭神大幡主↓豊玉彦=ヤタガラスと続きます。瀛一族が出来上がりこの「瀛」という姓を名乗った宗像三女神の一人である市杵島姫=瀛津島姫厳島神社は宗像大社よりも上位の神社。その証拠に、九州王朝の鹿毛馬神籠石の正面に鎮座していることからも伺えますね🐈室町時代になると、代々神祇大副(神祇官の次官)を世襲していた卜部氏(うらべ)の吉田兼倶が吉田神道を確立します、神祇管領長上を称して吉田家が全国の神社の大部分を支配するようになり一大勢力となります。その影響から白川家の権威は衰退していきます。時代は下がり江戸時代、白川家は伯家神道を称して吉田家に対抗しますが、寺社法度の制定以降は吉田家の優位が続いていきます。江戸時代は仏教が優位とされ神道は関心が薄く。手が加えられることが少なかったのでしょう🐈⬛明治時代になると王号を返上します。白川家当主の資訓は子爵に叙せられた。資訓の後を継いだ資長には実子がなく、伯爵上野正雄(北白川宮能久親王の庶子)の男子の久雄を養子に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となります。表向きだとは思いますよ。ここに末裔さんが存在してますその痕跡が鳥居に記されてます。現在の神社本庁の前身の団体が同社に押し掛け、千年以上続いた「白王」姓をそれ名乗ったらいけませんねぇと変名を迫っており。結果、白川伯王の「王」の横一棒を抜いた「土」へと変更したという歴史を後世に残すための痕跡としての「、」を残されています。始皇帝の血を持った末裔っていうとこが気に入らなかったのでしょうね🐈足を踏み外して落ちそうになった僕を支えてくださった誰かが居る厳島神社へ広島の厳島神社の元宮ですよ。是非行かれてください🐈ありがとう御座います🐈
鹿毛馬に鎮座する三女神【厳島神社】御祭神・市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命【牧野神社】相殿合祀・狭野尊命・大山積命・保食命・倉稲魂命由緒日恩山の山上に建立され、聖武天皇の御時(724年〜749年)御社の東に宮司の防(浄福寺)を建立。以後延文年中(1356年〜1361)まで筑前、豊前両国の衆民により祭られていた。しかし山上であるため参詣りに不便なことから延文年中、本社三女神を筑前国鹿毛馬村へ還し奉り天照皇大神を豊前国神崎村に還し、共に両村の産土神として祀られる。その後、山上の社殿は野火の為焼亡したが、その礎石は今も現存している。永正元年(1504年)神殿並びに社屋を再建、(大願主清原兼通敬白の棟札有り)村人166名と共に祭事を執り行っている。(文亀3年の宮座帳より)明治32年(1899年)縣社に昇格。嘉穂郡誌には「郡内唯一の縣社にして社地は広大ならざるも高燥にして清浄なり」と記されている。昭和7年に神殿、弊殿、拝殿を再建し、現在に至る。※道沿いに綺麗な鳥居が、掃除が行き届いて気持ちの良い参道入口、先を見ると石畳みが続く。入口脇の掲示板を読むと、興味深い事が何何、鹿毛馬に鎮座する三女神、御祭神が書いてある。正面左側数メートルに駐車場入口がある、物静かな参道、歴史のある宗像三女神ワクワクする。🤩
ようやく参拝させて頂きました。大鳥居の左奥に🅿️。綺麗に浄められていて、境内には楠の香。とても清々しい空間です。古くからの猿田彦様が並ばれていますので、旅立つ家族の善き道先案内をお願いして参りました。Instaによると、こちらで悟り書のお教室も開催されているとか。ご縁を大切にしていらっしゃる気持ちが有難く、また、愛される神社様のようです。今回は、宮司様にお逢い出来ませんでしたが、メッセージを頂き益々お逢いしたくなりました💓帰りには、近くに御案内のある神籠石史跡にも立ち寄りました✨
神社も素敵ですが、何より宮司さんの人間性が素敵過ぎます!絶対に会うことを強くオススメします!
地元神社でありながら滅多に参拝いたしませんが、当たり前の事ながら神社も駐車場や近辺も綺麗に清掃せれ清々しい気分に浸れます☺️宮司さんは小柄な方ですがおおらかな気品が漂う方なので御利益とかは意識せずに参拝してみて下さい❗️それとなく人生全般で何か得るものが有ると思います😃
鹿毛馬の産土神。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)田心姫命(たごころひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)。(宗像三女神)。三女神は天照大神の御子である。最初豊前国宇佐にいて、宗像に移る途中豊前国金田境の日大山にしばらく滞在した。その縁で祀られるようになった。ちなみに、この山を頴田側ではヒノウ、金田側ではヒオウと呼んでいる。
とても清々しい神社です。葬儀もやってくれて、納骨堂もありますので、お墓が無い人には有り難いですよ。
宗像三女神のうち市杵島姫(いちきしまひめ)命の名は「斎(いつ)く島」に由来すると見られ、従って厳島(いつくしま)神社を称する社は元々、市杵島姫を祀るものの筈。しかし、飯塚市鹿毛馬(かけのうま)の厳島神社は宗像三女神を祀る。これは総本宮たる安芸の宮島でも同じ。神紋も同じ。御由緒当社は日思山の山上に建立され、聖武天皇の御時(724~749年)御社の東に宮司の坊(浄福寺)を建立。以後、延文年中(1356~1361年)まで筑前、豊前両国の衆民により祭られていた。しかし山上であるため参詣に不便なことから延文年中、本社三女神を筑前国鹿毛馬村へ遷し奉り、天照皇大神を豊前国神崎村に遷し、共に両村の産土神として祀られる。「日思山」が判らなかったが、福岡県神社誌に…豊前國宇佐島より筑前國宗像郡沖津島に鎮座の時、當村日尾山を越給ふ古實を以て、景行天皇御宇三女神を祭り、今に社殿神石柱石等残れり。…とあり、「日思」→「日尾」→「日王」となったものらしい。やや南東、筑豊緑地を抱えるように日王山が立つ。その北をかすめる道を東上すると神崎に至り、天照大神を祀る飯土井神社が鎮座する。更に東上すると田川、香春、行橋を経て、南下すると中津、宇佐へ至る。三女神が宇佐島から宗像に遷座されたとは、おそらく日本書紀の一書にいう…卽ち以て日神生む所の三女神は、葦原中國の宇佐嶋に隆居せしめ、今や海北道中に在り。號て曰ふは道主貴、此れ筑紫水沼君等が祭る神是也。の一文であろう。しかし「沖津島に」との記述はまた別の一書にあり、そう伝えるからには沖津島u003d市杵島だったのか。…天照大神、則ち八坂瓊の曲玉以て、天眞名井に浮寄せ、瓊の端を囓ひ斷り、吹出づる氣噴の中に化り生せる神、號て市杵嶋姬命、是は遠つ瀛に居せる也。ともあれ、水神たる宗像の神が山上に居し、土地の境界を引いているのは興味深い。
名前 |
厳島神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0948-92-0488 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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宗像三女神を祀られています。綺麗に整備され広い駐車場のある神社さまです。トイレがありましたが鍵がかかっていました、使えたらもっと良かったけれど、、、境内に古い狛犬さんが隠居しています、こちらも前見た時は苔だらけで雑草もはえたりしていましたが、苔を払われ草も取られ美しくなっていましたので、表情がよく分かりより可愛かったです。もう一体の隠居さんも居ました、対ではないのか?なら一緒に置いてあげた方がいいのじゃあ??とか思いましたが、台座が違っています、別々の狛犬さんなんでしょうね。良いものを見せていただき参拝できて嬉しいです。