圧磨機圧輪が語る歴史の刻。
圧磨機圧輪記念碑【板橋区指定記念物】の特徴
板橋区指定記念物の圧磨機圧輪が存在感を放っています。
黒色火薬の製造機械としての貴重な歴史があります。
風雨にさらされて独特の雰囲気を醸し出しています。
板橋区指定記念物圧磨(あつま)機(き)圧輪(あつりん)記念碑この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(一八六五)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するた欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門(さわ たろうざえもん)が、幕命をうけてベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーバル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜などの図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。慶応三年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治五年(一八七二)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。明治四年七月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は、「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっていたためでした。同年十二月に当邸の一部は造兵司属地となり、火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩士で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎(さのかなえ)が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。明治九年八月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀二丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所」と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠板橋製造所(通称二造)となりました。明治二十七年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同三十九年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。大正十一年(一九二二)三月、国内外の軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和六十年(一九八五)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には区登録記念物(平成七年度からは指定記念物)となりました。平成二十三年(二〇一一)十月板橋区教育委員会。
風雨にさらされて、文字が読めないため、オブジェかモニュメント様にも、見えます。
板橋区砲兵本廠の遺構のひとつで黒色火薬を製造するためのものです。もともとは陸軍の火薬製造場にあったものですが黒色火薬が使用されなくなり、その後に圧磨機圧輪をそのままモニュメントとしていたようですが、前後に公園に移設されました。この一帯は旧日本軍の火薬工場を含む施設(板橋区砲兵本廠)があり、それは旧加賀藩江戸下屋敷の跡に建てられています。この辺りは学校、体育館、図書館、公園などが前後に建てられて当時の面影を残すものがあちらこちらにあります。足を延ばすといろいろな発見があるかもしれません。
名前 |
圧磨機圧輪記念碑【板橋区指定記念物】 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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機械をモチーフにした彫刻かと思ったら機械そのものらしい。