水戸黄門ゆかりの御神体、那須国造碑。
笠石神社の特徴
笠石神社は国宝那須国造碑を御神体として奉っています。
1691年に創建された歴史深い神社で、徳川光圀ゆかりの地です。
日本の考古学発祥の地としても知られ、魅力的な見どころがあります。
徳川光圀ゆかりの神社にて初参りしてきました。
ここが日本の考古学の始まりの地そしてそれをなした人こそ水戸黄門様また日本で始めての産金の地はじまりは、飛鳥時代今上侍塚古墳の再発掘と展示に向けて始まっています。そして世界遺産の登録に向けて動き出しているそうです‼️東の飛鳥として。
考古学発祥の地ですが、少し手入れが必要と感じます。
畑に転がっていた石碑を水戸黄門が調査をした事による考古学発祥の地。その石碑は国宝であり見学が可能。拝観料か御朱印を頼むと宮司さんが丁寧な解説で紹介してくれるが、不在も多いようだ。古代の栃木が南部の下野国に対し、この辺の那須国が発展していた事を示す石碑。綺麗な石材の表面に掘られた文字は見る角度によって変化し、直射日光ではよく見えずお堂の中でLEDに照らされてはっきりと見え、少し角度を変えると文字が浮いて見える不思議体験。一見の価値あり。生涯いくつの国宝を見る事ができるだろうか。
三度目の参拝でやっと宮司さん在宅にて御朱印をいただく事が出来ました。
石碑を御神体とする神社。もう少し流行っているかと思ったら、そうでもなかった。みんな石碑を見に、この神社を訪れるでしょう。石碑以外は、水戸光圀が碑を見つけ神社を建てた以外は見た目、寂れた神社です。栃木県が押してるから、そのうち流行るかもしれません。御神体をみたいと言えば、五百円の拝見料と説明の後で一人づつ見れます。係りの人がいない可能性もあります。小さく文字だけが刻まれていて、事前の知識人がなければ大して面白くありません。でも、価値がわかればかなり良いと思います。石碑は御神体なので、撮影禁止です。御神体に手を合わせるのも基本です。場所は、西那須野からバスかタクシー、もしくは車。タクシーは、5670円掛かりました。人数多ければ割り勘で行けます。タクシー、バスの場合、参拝した後が問題です。
国宝の「那須国造碑」を拝観する前に、ちょい先にある、なす風土記の丘湯津上史料館を覗くことをお奨めします。実物大のレプリカとその拓本と内容の解説を学んでからだと、更に興味深くご覧になれるかと思います。この神社にも立派な芭蕉の樹がありました。丁度花が咲いていて、小さなバナナ状の実をつけていました。この辺りはやたら芭蕉の樹が目立ちますが、やはり松尾芭蕉の所縁が深い地だからなのかな?
大田原市湯津上に鎮座する笠石神社は、国宝「 那須国造碑」があり御神体として祀られています。水戸藩主徳川光圀公が草に埋れている石碑を発見、元禄5年(1692)にお堂をつくり安置したのが始まりとのこと。有り難く、”笠石神社”の御朱印を頂きました。
日本三古碑がひとつ那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)を御神体とし、御神体を公開している神社です。拝観料は五〇〇円(二〇二〇年八月現在)で、宮司さんの詳細な説明付きです。那須国造碑は古文書として国宝に指定されていますが、書跡でもあります。刻まれた内容そのものは身内の自慢話に過ぎないのですが、史料的価値はきわめて高く、碑文を起草した人物は大陸の情勢に精通した渡来人で、当時一級の知識人であり能筆家であったとうかがい知れるそうです(以上、すべて宮司さんの受け売りです)。書跡の良し悪しなど私にわかるはずもありませんが、一字一字丁寧に刻まれた碑文はカリグラフィーに通じる図形的な美しさを感じます。神社そのもはこじんまりとしていて、 那須国造碑と碑を収める鞘堂の他に見どころはありません。公共交通機関でのアクセスは制約が多く、国宝とはいえ万人受けするものでもありません。しかしながら神社の創建を命じた水戸光圀公をはじめ多くの文化人が惹き付けられた理由は見ればわかると思います。
名前 |
笠石神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=1409 |
評価 |
3.9 |
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元禄四年(1691)、那須国造碑を安置するために建立した(竪八間横七間の塚を築其の上に寳形造の堂をたて)碑堂が発祥。扁石を窪めて笠の如く那須国造碑の上にあったので、笠石神社とした。那須国造碑は、表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推測されている。明治四十二年(1909)、刻の、那須國造笠石神社、の石柱。大正拾三年(1924)三月、刻の、奉納石柱。歌碑。日本考古学の原点 湯津上の侍塚古墳、の大きな石碑。令和三年(2021)三月二十八日、刻の、日本考古学発祥の地、の大きな石碑。右側に、歌碑。大正拾三年(1924)三月、刻の、奉納石柱。明治三拾八年(1905)旧三月拾五日、刻の、古風な、石鳥居。右側に、大正十二年(1923)八月十一日、刻の、摂政宮殿下御手植の松、の石柱。石燈籠一対。左側に、明治四十年(1907)四月 漱盥、刻の、手水舎。昭和二年(1927)十二月、刻の、大きな石碑。石の祠一宇。木の祠一宇。稲荷神社一宇。本殿の石段の前に、狛犬阿吽像。右側阿形像は、目が大きく、獅子鼻で、まゆ毛、あごひげが刻まれている。耳の下に巻き毛が三つ、うず高く、すじ毛が長くうねをなす。左前脚を少し上げて、尾は立尾である。左側吽形像は、右脚を少し上げ、あごひげが刻まれている。耳の下の巻き毛がうず高く、すじ毛が長くうねをなす。尾は立尾で、その脇は左右にわかれる。脚の爪のところのすじ毛が珍しい。小さいながらも、よく刻まれている。紀元二千六百年(1940)記念 昭和十五年(1940)四月三日、と後ろに刻まれている。本殿の境内には、石燈籠一対がある。木の柵で囲まれている。古い由緒を持った、立派な神社である。歌碑が多い。駐車場の脇の庭の福寿草が数多、満開であった(令和6年1月30日訪問)。