沖縄戦の歴史を感じる壕。
缶詰壕の特徴
沖縄戦の歴史を感じられる貴重な戦跡です。
木造の階段を上った先にある壕の内部が目を引きます。
エントランス管理事務所からのアクセスがスムーズです。
食糧を保管していた壕。入口は4ヶ所あったようです。落盤の恐れがあり封鎖されてます。
沖縄戦の戦跡。
駐車場は「浦添大公園南エントランス管理事務所」30台位。建物の間を抜けると遊歩道があり、300m進むと「缶詰壕」があります。途中の山川ガー周辺は30段程の階段があるので気を付けて下さい。
2022.11.15中は複雑な形で左右に分かれている。食料を保管した壕で「糧食壕」とも呼ばれていた。缶詰の他、米や乾燥野菜、味噌そして泡盛もあったようだ。生死のかかった極限状態では、酒は必要なのだろう。五稜郭に立て籠もった兵士の遺品にも多くの徳利があったのを思い出した。お祈りするとともに繰り返さないことを願う。
エントランス管理事務所から奥に行き、フェンスを通り抜け木造の階段の突き当りにある。
| 名前 |
缶詰壕 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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(前田高地での戦闘)[1945年4月1日、米軍が沖縄本島の読谷・嘉手納・北谷に上陸しました。宜野湾の嘉数高地 などで戦闘が繰り広げられていましたが、第一線(嘉数高地)が陥落して後退した日本軍の部隊が仲間・前田へ配備 されます。4月25日、米軍は前田高地への攻撃を開始します。米軍は、まず高地頂上を奪おう と試みますが、頂上に立った所で日本軍の攻撃を受け、数分で18名が犠牲となりました。そこから日本軍との高地頂上の争奪戦を繰り広げ、さらに多くの死傷者を出しました。](回想録で戦闘よる負傷者)[米戦車は前田高地東側を迂回して、東の前田から西の仲間に向けて進撃してきたところを、前田高地から志村隊が砲 撃した。しかし猛反撃にあい、負傷者が続出したわけである。負傷者は横たわって治療を受ける事になるのだが、横たわる者が続出すると壕内スペースが足りなくなる。そこで、直接戦闘の役に立たない負傷者を、戦闘壕から「150米位下がった所に在るカンパン壕」に移した事になる。乾パン壕は前田高地麓の壕であるから、米戦車が進撃してきた現県道38号線により近くなってしまう。より危険な状況になるが、やむを得ない処置と考えたのであろう。さらに、林氏は別の回想録で次の様に述べている。][四日には総攻撃が行われた。壕は戦死者と負傷者でいっぱいになってしまった。そこ でカンパン壕に負傷者を移すことになり、カンパン壕は患者壕とも呼ばれるようになった。林も戦友の助けを借りてカンパン壕に移った。文中「総攻撃」は日本軍による総攻撃を指す。5月4日、第32軍(沖縄方面軍)は全軍をあげて総攻撃を行い、前田高地でも激戦が展開された。林氏の2つの回想録で、乾パン壕に負傷兵を移す日付が異なり、前者は3日、後者は4日として居る。いずれにせよ、5月3日か4日頃、負傷者は乾パン壕に集められる様になり、以後「患者壕」とも呼ばれる様に成った事がわかる。][一方、日本軍は洞窟に陣地を置き、(反射面戦闘)白兵戦や夜間攻撃などを行いますが、米軍の猛攻により多大な損害が出ました。頂上付近を占拠した米軍は、日本軍の隣地豪の入口や各ガマに潜んでる口を破壊する事で閉じ込めて、追い詰めて行きました。「米軍は豪内奥には立ち入らず、また夕暮に成ると引き上げていきました。暗い中の戦闘を避け、反撃を恐れであった様で、米軍側はそのように方針を取っていた。」5月6日に前田高地は、米軍により完全に制圧され、一方 日本軍は閉じ込められた豪から脱出には容易ではなかったが、米軍は仲間の遺体を丁重に処理しながら 次の戦場え移動の準備に備える合間に、翌日 夜に全員、日本軍は小さな穴を掘り開けて、そこから出て首里え撤退する事になりますが。(先に穴から脱出したのは賀谷隊以下部隊で、後を追うように志村隊以下部隊は脱出したが!)「ありったけの地獄を一つにまとめた」と表現される事から、いかに凄惨 な戦いであったかが感じられます。浦添周囲、全体で日本軍は約9800名以上の方が戦死して居る!グスクは沖縄戦の最激戦地のひとつとされて居る。又住民も巻き添えで約半数、58.8%、約549人の方が亡くなられた!(確かな数はそれ以上可も?)賀谷隊長以下数十名(軍人医も含む)は敵陣の中、先に脱出つして、突破して犠牲者を出しながら、成功したが、あとに続く志村隊長以下兵士達は米軍に知られ、首里向け退却に失敗し、 グスクに後戻って麓に閉じ込められた際に、乾パン豪に重症兵を再収容し、戦闘可能な兵は分散してE-口兵員豪と缶詰豪に潜んでいたか、危機感を感じ、後に中腹の賀谷隊 本部豪に移って、潜んで居て。(乾パン豪で治療もできず重症兵は多く亡くなられて、残ったのは(この時点では約40名に成る)米軍は次の敵陣え移動に備える合間に、夜間に高地を脱出に成功して仲間→安波茶→棚原→中部方面(北上原の隣地豪にて)沖縄戦が終った事も知らず、敗残兵に成って単発的に戦い続けて居たが、4ヶ月後にて米軍に投降して居る。南部戦を戦うなく終戦を迎えた。[ 回想録を一説借りて引用した]同高地の日本軍陣地は、麓部、中腹部、頂上部の3つに分類できる。高地 麓の壕は東から缶詰壕、兵員壕、乾パン壕の3つで、それらは第62師団司令部経理部の物資集積壕として構築された。それらの物資は、日本軍 嘉数高地からの撤退時、前田高地が最前線になる際に、3夜間を利用して首里に後送されたが、残る物資が前田高地での戦闘と、 戦闘後の志村隊の隠避を支える事になった。それらの壕は、前田高地からの撤退命令が出た後、高地に取り残された志村隊が分散使用し、多くの期間、乾パン壕は患者壕として、缶詰壕は本部壕として、兵員壕は戦闘力ある兵士の分散壕として使用された。[ 私が兵員豪の入口発見出来たのは回想録での缶詰のD-口位置から10m上での記事つである。スマートフォンの機能で移動測定を使って、その地点で草木の中え分け入ったら、豪は金網で囲った兵員口を見つけました。](その後の経過)足跡で米軍に場所を知られた事で、缶詰壕が米軍の攻撃を受けた場面をみる。志村隊は本部壕の缶詰壕から移した際の 様子を、 壕内の態勢を整理し、再攻撃に備えていたところ、午後一時すぎごろ、案の定、また敵がやってきた。不意に頭上で削岩機らしい音が響きはじめた。「これは大変だ!」 削岩機で穴を開け、爆雷を仕掛かけて爆破するつもりに違いない。前田高地上でも米軍がたびたびやった方法である。削岩機の音がやんで、しばらく静かになったと思った瞬間、「ドドーン」という大爆発音。とたんに壕内が大きく振動して、天井からバラバラと土砂が降りそそいだ。一瞬、「やられた!」と感じたのだが、まだ壕は大丈夫であった。やがてまた、削岩機が活動しはじめる。不意に削岩機の音がやんだ。夕暮になってガヤガヤした話し声が徐々に遠ざかってゆくではないか。缶詰壕には明日という日のない事を悟らざるをえなかった。私はさっそく将校と主な下士官を集め、今夜じゅうに缶詰壕を脱出する決心を示した。問題はつぎに移るべきアジトの選定である。そのとき、ふと私の頭に浮かんだのは、かつて一度だけ入った事のある、前田高 地山頂近くの賀谷大隊の壕であった。決心した私は、即座にその旨を命令し、 移動にさいしては、缶詰壕の食糧を可能な限り携行するよう指示した。かくて残存のわが大隊は、その夜のうちに缶詰壕を脱出し、賀谷大隊の壕へ移動したのである。高地 中腹壕は東から賀谷隊本部壕、志村隊大隊砲小隊壕、志村隊本部壕の3つであった。 賀谷隊本部壕は第62師団司令部壕として構築され、構築したのは第62師団工兵隊の第1 小隊と第2小隊であった。この壕は、沖縄戦開始以前の昭和20年1月、作戦領域の変更に伴い、第62師団旗下の第63旅団司令部となって沖縄戦を迎える。しかし嘉数高地からの撤退に伴い、前田高地が最前線になるにあたり、第63旅団司令部は首里に後退、賀谷隊本部壕となって4月26日から始まる前田高地の戦闘を戦うが、高地の守備悪化ともない、32軍司令部より伝文が届いて撤退せよと命令がくだった。(中略)[歩兵第32連隊の第2大隊(隊長志村常雄大尉、以下志村隊は前田高地を占領して居た米軍が那覇え進撃した事で隙間が出来(5月末まで潜んでいて)夜間に前田高地から脱出に成功し、敵陣の合間を潜り抜けて、各洞窟に転々と移動して、中部方面に辿り着く。(北上原)で終戦を知らず、敗残兵として、単発的に戦いを続けてい居たが、四ヵ月後に(伊東孝一大隊長)と再会して、彼は同期であり、戦友である。捕虜であった彼は米軍から命じられて各地に潜む敗残兵に戦争は終った事を説得する役目であった。志村隊は一時拒否していたが、彼の熱意に負け、説得を受けて9月3日似て武装放棄して投降し敗戦を迎える。(24歳、米軍え投降して生きのこったことで(生存者は約29名)兵士の豊富な回想録を残している。)独立歩兵第12 大隊(隊長賀谷與吉中佐、以下賀谷隊は首里え撤退して、32軍牛島司令官以外 長参謀長、八原博通と共に南部え後退し(46歳)詳しい場所は不明であるが、摩文仁辺りの戦闘で戦死なされた と有る] 米軍は前田高地を占領した後に、麓の集積豪の物資場所を知られ、残りを全て回収されて居る。[なお、嘉数高地を守備した八原博通大佐(43歳)は南部方面の糸満で洞窟隣地を守備していた伊東孝一大隊長(24歳)と出会って、交戦中の彼に現状報告や軍部の状態を伝え。降伏する様に説得し、彼と部下300名に武装放棄させている。八原博通は民間人になりすまして摩文仁の海岸沿のガマで住民と共に保護され、民間の収容所にいたが。だが身分がバレて、米軍は彼に尋問を受けて居たがが、何故か彼を処罰にとわれなかった!大佐で有る彼を丁重に扱ったのであろう。(彼は牛島陸軍大将以外長参謀長の最期を見届けて後、特命を受けて本土の大本営に伝える任務で)後に敗戦の日本に復員したが!軍部の大本営は彼に見覚えの無い命令違反の濡れ気味を付け、また軍人として何故、牛島陸軍大将と共に自決しなかったのかと!臆病者の烙印を押され白い目で見られ、「軍人の面汚しだ」 と冷たい目で見る者も多く、軍人として評価は低く、非難を受けた。だが、意外にも戦後にアメリカ側は彼を敵ながら、持久戦、作戦、戦術が評価され。今でも優れた戦術持つ指揮官として敬意を表している。米軍は彼の戦術を参考で戦いの教材用として資料に残している。]今では日本の自衛隊の若者は八原博通大佐を軍人として高く評価して居る。戦後、後に八原は警察予備隊の誘いを辞退し後も、旧軍人達とは距離をとっていた。故郷で農作業の傍ら、 反物の行商を始めて極貧ながらも どうにか収入を得ていた。葬式に参列した旧軍関係者はたった5人だけだったという。1981年5月7日78歳で永眠なされた。