高麗橋で歴史を感じよう!
高麗橋の特徴
大阪市中央区の東横堀川に架かる歴史ある高麗橋で、里程元標が設置された場所です。
ブラタモリの東海道五十六次ゴール地点で、2024年秋には特別放映も行われました。
橋の下を通るリバークルーズや竜馬がゆくでの渡橋シーンが話題となっています。
大阪市中央区、東横堀川に架かる橋。 名前の由来は朝鮮からの使者を迎えるために架けたとか、橋の東側に難波高麗館があったからだとかいう。高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。高麗橋という橋の名の由来には諸説あるが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものである。高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。また、東海道53次は有名ですが、最近は、東海道57次と言われる場合があり、ここ東京日本橋から、京都三条までが高麗橋が57次の終点になります。
明治時代には里程元標がおかれた。西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。東京・江戸で言えば日本橋にあたる。運河である東横堀川に架橋されている。
ブラタモリロケ地巡り東海道五十六次ゴール地点、オフィス街の一角にある小さな橋です。一応里程元標跡の石柱もあり、歴史ある橋としてのメンツは保ってます。
2024年11月2. 3. 4日限定復活のブラタモリの東海道57次を放映するので、最終地57番の次ゴールとされている高麗橋を違った目線で観て来ました。いつも何気なく渡っていた高麗橋の由緒を確かめて、江戸時代に遡るとは新鮮な驚き。大阪城築城の時、外堀を改修された記録が残っているそうです。大阪城天守閣に保存されている鉄製の擬宝珠(ぎぼし)に1604年と彫られていているのが、元々は高麗橋の物。
リバークルーズでこの橋の下を通過しました。東京の日本橋に相当する元標的な橋のようです。日本橋のようにこの橋の周辺には豪商の店が軒を連ねていたところも似ています。現在の橋は1929年(昭和4年)にできた鉄筋コンクリート製だそうです。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っているんだそうです。
竜馬がゆくで竜馬がこの橋を渡るシーンがあるけど本当に渡ってたのかな?
東の日本橋、西の高麗橋と云われ、関西地方の道路の起点です。日本橋ほど華やかではないです。
東横堀川に架かる橋です。
スパイスカレーの聖地。東詰にカシミールの列が伸びる。でも橋自体の記憶は、はたとなかったことに気付いた。場末感が強いし、物珍しさで東横堀川水門に目が行きがち。阪高が上にあり、橋が町をつなぐ前に、見た目、町が分断されている。でも、昔は「大坂」の橋の中でもとりわけ格式が高い(最も高い?)ものだったらしい。西詰には高札場、東詰には里程元標があったのだから、江戸日本橋、京都三条大橋と同等ということになる。だからこそ、堺筋高麗橋が戦前の大阪のメインストリートだったのだろう。堺筋高麗橋に300年以上三越があったとは、いまではイメージしにくい。
名前 |
高麗橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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道修町と同じく昔の薬問屋が多い地域である。薬に因んだ名前が多い通りです。Like Doshomachi, this area was once home to many drug wholesalers.Many of the streets here have names related to medicine