高松の苔に残る武士の名。
清水宗治公自刃の地の特徴
明治時代の建立の供養塔が記されている場所です。
清水宗治公が自刃した場所としての歴史的意義があります。
高松山妙玄寺の近くに位置し、周辺整備が進んでいます。
供養のため初めて訪問。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」享年46✨⭐️1582年(天正10年)、織田信長の四司令官の一人、羽柴秀吉の中国進攻に抵抗、備中高松城に籠城し徹底抗戦、秀吉得意の懐柔策で降伏すれば備中u0026備後2ヶ国を与えるとの条件撥ね付け応じず、信長誓詞を毛利本家に届け武士の忠義を貫く🐎⭐️秀吉の軍師/黒田官兵衛の献策で歴史上に名を残す『備中高松城水攻め』の前に降伏決意、城兵3000の命と引き換えに、敵味方見守るなか湖面の舟の上で切腹、秀吉が『武士の鑑』と称賛🤔⭐️思った事①、思いの外、備中高松城の三の丸から近い場所だったと廻りを眺めて実感、遠く石井山の山頂に白い旗が靡いてました「羽柴秀吉本陣」ホントに秀吉陣地から見えたかな😅⭐️思った事②、もう数日でも講和が延びたら、もし清水宗治が頑固で降伏しなかったら、毛利外交僧/安国寺恵瓊と羽柴軍師/黒田官兵衛孝高が居なかったら、「中国大返し」や「山崎の合戦」の結果はどうなったんだろ~、歴史も紙一重ですね、秀吉に天下を取らせた時の巡り合わせ⚔️
2021/3/21来訪。宗治公の自刃は後の切腹の作法となったとのこと。詳しくは高松城址にある資料館のビデオで。
石碑と隣のお寺、ともに新しいものです。
真新しい供養塔が建てられています。この清水宗治という武将は天下人でもなければ勝利者でもありません。しかし四百年の後までも人々に讃えられているというのはすごいですね。自らの命と引き換えに五千の城兵の命を救った立派さ、潔さが今でも多くの人々の心を打つのでしょう。それにしても、もしこの時、宗治が降伏を受け入れるのをもっと伸ばしていたら、この後の展開は大きく変わっていたかもしれませんね。そう考えると、秀吉に中国大返しを可能ならしめ、山崎の合戦での勝利をもたらした影の功労者はこの宗治かもしれませんね。今回の大河ドラマ「麒麟がくる」も間もなく高松城の水攻めの話になると思います。今回の主人公は明智光秀なので前の「軍師官兵衛」の時のように詳しくは描かれないと思いますが、本能寺の変から山崎の合戦、そして光秀の最期が今回の物語の最大のクライマックスなのでその中で高松城の水攻めがどのように描かれるか今から楽しみにしています。最後に自らの命と引き換えに多くの城兵の命を救った英雄の御霊に合掌。
備中高松城主であった清水宗治が、羽柴秀吉に水攻めされ、降伏して舟上で自刃した場所で、五輪塔がたてられています。高松城駐車場の西側にあり、訪城の際は足を伸ばしてみましょう。
末裔がいるとのこと。多くの家臣を救った立派な先祖を持って大変素晴らしいことだと本気で思う僕がいる。(2020_01_12)
高松城を見に来たなら一応見といたら?のレベル。
お隣の妙玄寺の新築工事にともない、周辺整備がおこなわれたようです。2018年6月訪問。
名前 |
清水宗治公自刃の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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備中高松城跡の道向かい、徒歩2分位のところにある高松山妙玄寺、清水宗治公が自刄した地とされ歴代住職により供養がなされ、境内に供養塔が建立されています。清水宗治公は最期に豊臣秀吉公から贈られた酒と肴で宴をし、舞をおどった後にこの地の船上で自刃したと言われており、その最期は見事であったと、後の天下人・豊臣秀吉公が絶賛したそうです。