歴史と浪漫が交差する千住大橋。
千住大橋の特徴
荒川アンダーザブリッジのモデルとなった歴史ある橋です。
1594年に架けられた、江戸の浪漫が息づく場所です。
千住青物市場が栄え、活気ある人の流れを感じます。
松尾芭蕉が奥の細道の矢立初めをした地江戸三大青物市場の一つ・千住青物市場が栄え、現在もその伝統を受け継ぐ足立市場があり、人の流れを感じられる。
今でこそ鋼鉄製のなんの変哲もない橋ですが、歴史の舞台となった浪漫に溢れる場所です。徳川家康が江戸幕府を拓くより前の1594年。隅田川に最初に架けられた橋で、当時は江戸と北関東を結ぶ交通の要所でした。架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。伊達政宗が水に強くて朽ちにくい高野槇(こうやまき)の材木を家康へ献上したことで知られます。足立区の橋の袂に階段があり、川縁まで降りることが出来ます。当時の橋桁の杭は今でも川底に残されているとされ、調査で杭のあった場所へ目印として赤いブイが浮かべられています。(ブイの下を覗いてみましたが、川が濁っていて上からでは視認出来ませんでした…。)「伽羅(キャラ)よりもまさる、千住の槇の杭」と当時から詠まれていました。※伽羅とはジンチョウゲ科の木材を使用した最高級の香木のこと。
1594年に架けられた橋。徳川家康が江戸に入府して初めて架けた橋です。最初は大橋と呼ばれていましたが、両国橋が架けられてからは千住大橋と呼ばれるようになりました。江戸の北の玄関口であり、松尾芭蕉が奥の細道の旅へと出発した場所でもあり、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています。何度も洪水に見舞われ、6回の改築や架替が行われたものの、明治時代の1885年の洪水まで、約300年間、流出しなかった名橋です。なお、現在の橋は1927年に架けられたブレースドリブ・タイドアーチ型と呼ばれる構造のもので、建築史上貴重な橋梁になっています。
千住大橋は、国道4号線が隅田川を跨ぐ場所に架かる橋です。北岸は足立区の千住、南岸は荒川区南千住です。日光方面へ向かう旧橋と日本橋方面へ向かう新橋と旧橋の上流側に並行して走る水道橋の3つの橋から構成されています。旧橋は水色のアーチの形をしたトラスで出来た鉄橋なのに対し、後から架けられた新橋は普通の桁橋です。旧橋が千住大橋のイメージを象徴していると思います。最初に千住大橋が架けられたのは、徳川家康が江戸に入って間もない1594年のことで、隅田川に架けられた最初の橋です。当時としてはかなりの難工事だったようです。江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋をしばらくの間認めなかったそうです。この橋が出来たことで、大橋を渡った千住宿は日光街道の初宿として江戸から日光、出羽、陸奥への起点として栄えました。松尾芭蕉の「奥の細道」もこの大橋が陸路の起点だったし、この橋を徳川最後の将軍慶喜が水戸へ向かうのに使ったのも歴史を感じさせるものがあります。今の橋は1927年に大震災復興計画により架けられた鉄橋と1972年に日光街道の交通量増加により架けられた橋です。隅田川沿いには遊歩道が続いていますが、千住大橋の下で分断されていたため、2004年に千住大橋の下に歩道専用の「千住小橋」が作られました。これは余談です。千住大橋の旧橋の南側には「八紘一宇」と書かれた石碑が立っています。意味が良く分かりませんでしたが、調べてみると「八紘一宇」は、「日本書紀」神武天皇即位前紀の言葉から造語され,世界を一つの家となすという意味だそうです。それだけなら何も問題ないと思いますが、日中戦争、太平洋戦争でアジアへの侵略を正当化するために戦争当時の日本政府がスローガンとしてこの言葉を使ったそうです。そういう石碑が残っているのも何だか微妙な感じですね。
荒川アンダーザブリッジの舞台のモデルとなった橋です。
夕暮れ時、綺麗。
名前 |
千住大橋 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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荒川アンダーザブリッジのモデルとなった橋の一つです。荒川ではなく隅田川に架かる橋です。