比高270m、安田義定の山城!
小田野城跡の特徴
標高883mに位置する山梨市指定史跡、歴史的な価値があります。
安田義定の城跡は、石積や堀切が現存していて魅力的です。
南尾根は急坂で、ダイナミックな登山を楽しめるスポットです。
牧丘町西保下にある平安末期から鎌倉初期にかけて、安田義定が用いたと伝えられる山城。 『王代記』には「跡部上野守西保小田城ニテ腹切」とあり、寛正年間(1460~66)に至っても存続使用されていた。 城のある小田野山は標高883m、鼓川が東流する狭い渓谷に突き出るように位置している。 遺構は、山頂に残る2つの平坦地を中心とし、西と南に延びる尾根上に計4つの郭を配するほか、帯郭を幾重にも設けて防備を固めている。上塁は、南の尾根の先端に位置する三の丸と呼ばれる郭にのみみられるが、後世のものと推定される。普門寺からの道は本格的な登山となり、かなりの急な山道を登る事になります。今季節は枯れ葉が多く道が隠れていたりかなり滑ります。倒木も多く行くには登山中級以上のレベル必須です。枯れ葉のない季節に行く事をお勧めします。
標高883m、比高約270m山梨市指定史跡ですと普門寺のお墓に道案内表示があったすぐに獣フェンスあるある( ゜o゜)尾根をしばらく登ると神社あるある石積に土塁がある♪けど、石積は明らかに神社のモノ(・ω・`*)裏にうっすら堀切♪ここから登りがさらにキツイ(;^_^A段郭に堀が出現♪登れば帯郭付きの細長い曲輪♪さらにのぼれは岩ゴッツゴツもういっちょ うっすら堀切♪やっと主郭にトウチャコすると説明文付きの標柱があって一休み( ´;゚;∀;゚;)ゼーゼーかるく段々々の主郭から北尾根に下りると一番ハッキリした堀切♪その先の張り出した小曲輪が いかにも防御の働きしてそうなトコ♪南尾根は小刻みの段郭ダラケ♪さらにこの南尾根は..木をつたわないと下りれないウルトラ急坂だった➰(´ロ`ノ)ノ シエーふもとには 城主だったラシイ安田義定の墓があって 御所跡ラシイ( ̄O ̄)館を御所と言うのが甲州流ですと6月でも そんなにヤブってなく、キレイな山城だった..カナ(^・ェ・^)(^._.^)(^・ェ・^)(^._.^)ウンウン
2020/12/20普門寺からひたすら乾いた急な尾根を登る。乾燥した落葉が大量につもり、とても滑る。山頂の主郭の下に二つの平場があり、途中には浅い堀切や、巨大な石を利用した石塁もある。山頂の奥を少し下ると、まあまあの堀切がある。たぶん寺のある場所がいわゆる城で山頂は詰めの城ではないか。
| 名前 |
小田野城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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❶【参考 県市郡村誌 明治25年】小田山の城虚(じょうきょ)(明治時代の中牧村誌による)安田遠江守義定(よしさだ※❷【参考 東鑑】)の要害の城なり。(のち、跡部景家 此の城虚にこもりし事、王代記に載っている。)山頂に櫓跡あり。荒壘(規模の小さい砦)等、存在する。外川 子丑の方(子は北の方角、丑は東北東の方角)より麓を繞り(めぐり)西保川 (又、皷川(つづみ川)という、もしかすると城溝に水を貯えるゆえに、堤の意味で名がついたのかもしれない)其の南を東流する。居館の跡を西の御所と称す。碑あり。高さ2尺7寸。文字なし。又、山下に生害石(しょうがいせき)という石がある。[所] 中牧村の西方 西保村の境にあり_____________[安田遠江守義定] は 東鑑(あづまかがみ)で知ることが出来る。1184年、一の谷の戦いで 9人の平氏の将軍が討たれ源氏の勝利となる訳だが、安田遠江守義定は、搦め手の大将軍である、源義経に従い、9人のうち3人の将軍を討ったと記録されている。[討たれた3将軍]平 経正(つねまさ)、平 教経(のりつね)、平 師盛(もろもり)❷【参考 東鑑 1300年頃】[寿永3年(1184年)2月4日](合戦前日)大手大將軍 蒲冠者(かばのかんじゃ)範頼(のりより)也。(おおて 大将軍 源範頼なり)相從之輩(相従う輩は) ~参加武将の名省略~已下五万六千餘騎也(以下 5万6千騎あまりなり)。搦手 大將軍 源九郎義經(よしつね)也(からめて 大将軍 源義経なり)。相從之輩(相従うやからは)遠江守義定 (参加武将の筆頭にある)~そのた参加武将省略~已下二万餘騎也。(以下2万騎あまりなり)~省略~[寿永3年(1184年)2月5日](合戦日)~省略~但馬前司經正(平 経正・つねまさ)、能登守教經(平 教経・のりつね)、備中守師盛者(平 師盛・ もろもり)、遠江守義定獲之云々。(遠江守義定がこれを獲るという)