千年の歴史、櫛梨神社で遊歩道散策!
櫛梨神社の特徴
櫛梨神社は千年以上の歴史を持つ延喜式内社です。
ここから登る登山道は櫛梨山城へのアクセスが便利です。
神社内にはウォーキングコースがあり散策が楽しめます。
この神社は延喜式に記されている千年以上経っている神社の1つです。歴史が感じられる場所です。
御祭神様神櫛王命社伝によれば、景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神(磐船大明神)を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神(赤坂大明神)を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇8年(199)9月15日。120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。よって、皇宮大明神とも、大宮とも称された神社。
ここからの登山道で櫛梨山城に登りました。
平安時代の縁起式讃岐二十四社の一つ琴平町櫛梨神社です。元々は今の場所でなく櫛梨山の頂の西端、櫛梨城跡(櫛梨古墳)の場所に有ったようですが城を造る時に今の場所に移動したようです。さすがに讃岐二十四社の一社ですから何か他の神社とは違うパワーを感じられます。それから、この櫛梨神社も氏子の皆さんが掃除されているのか綺麗で頭が下がります。
ココから遊歩道を散策して山頂広場に行けます。
ココから遊歩道を散策して山頂広場に行けます。
普通の神社ですまた神社内からウォーキングコースが楽しめます詳しく知りたい人は出かけて見て下さい(^-^)/
下櫛梨の産土神で讃岐延喜式24社のひとつです。大内の大水神や多和神社と「讃岐の三の宮」の地位を争った古社です。神櫛(カングジ)王と醸造神を祭る酒成部(カムクシ)の氏寺とも言われてきました。神櫛王は「噛む」「くす」で、酒の神でもあり、酒部公の祖先とされます。神櫛王が、讃岐の国神である「大麻神(大国命)」と櫛無神(大歳神)を祭ったのが創建とも言われます。どちらにしても梨櫛梨山全体が信仰の対象でした。南北朝初期には善通寺誕生院の支配下に入り、「宥範縁起」を仲立ちにして讃留霊王の悪魚退治伝説との結びつきを深めました。天正の兵乱で社殿灰燼に帰しましたが、元和3年に生駒高俊が再建します。旧四条川を挟んで忌部氏の大麻神社と向かい合います。北方面の眺望も素晴らしく瀬戸内海や海に行き交う船も見えます。戦国時代末期に、侵入してきた毛利勢力を在地勢力が迎え撃ったのは、この山にあった本吉城とも言われます。
延喜式内社,讃岐国那覇郡アボカ神社(原文)延喜式内社,讃岐國 那珂郡 櫛梨神社。
| 名前 |
櫛梨神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E6%AB%9B%E6%A2%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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周辺のオススメ
櫛梨神社(くしなしじんじゃ)。香川県仲多度郡琴平町下櫛梨。式内社(小)、旧郷社。【祭神】神櫛王命資料によると、社伝によれば、第12代景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚を討つために土佐国から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神を祀った。これを般磐大明神という。船磐の地名は今も残り、舟形の大岩がある。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神について尋ね、大麻神・大歳神、さらに、山下明神・諏訪明神を祀った。船装束する時に、経津主神・武甕槌神を祀った。これを赤坂大明神という。当地には、関連して、船の苫を干した苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷などが地名として残る。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、讃岐国国造となった。第14代仲哀天皇8年9月15日に120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り、廟を建てて祀ったのが当社の起源となる。神櫛皇子の伝承は、県内の東かがわ市にある白鳥神社や、坂出市の城山神社、善通寺市の大麻神社(前述の大麻神か?)にも残る。その墓は、高松市牟礼町にある。往古は皇宮大明神とも、大宮とも称された。もとは標高158mの如意山の山頂に鎮座していた。その後、火災に遭い、現在地の如意山の西南麓に遷座したという。現在は、境内から如意山まで遊歩道になっている。戦国時代の天正7年(1579年)、長曽我部元親の戦火で焼失。江戸時代になり、元和元年(1615年)、讃岐高松藩4代藩主生駒高俊が社殿を造営した。寛文5年(1665年)には氏子中により、社殿が再建されている。明治3年(1870年)には随神門を、明治43年(1910年)には本殿を、翌明治44年(1911年)には幣殿をそれぞれ改築。大正6年(1917年)に社務所を新築した。また、明治・大正期に70柱あまりを合祀した。とあります。