足腰の神様が見守る、巨大わらじのある場所。
森権平庵の特徴
足腰の神様としてのご利益が期待できるお店です。
大きなわらじが印象的で、訪れる価値があります。
国道11号線の南側に位置し、アクセスも便利です。
足腰の神様としてご利益があるそうで大きなわらじが印象的ですな👣
そんな昔話も知っててイイ!
権平庵は白鳥町の東方の引田町に近い国道11号線の南側の旧道路上に位置しています。天正12年(1584年)7月19日、土佐の長曽我部元親が大窪を越えて、田面に陣し、引田城を攻めようとしたため、豊臣方の仙石秀久は、引田中山で迎え討つた。森権平は仙石秀久の武将であったが、元親の家臣、稲吉新蔵人と、ここ中山口で一騎討ちとなり、権平の愛馬が湿田に脚踏み入れて倒れ、権平もまた湿田に脚をとられて、遂に討ち死にしたのである。享年18歳。紅顔眉目秀の若武者であったと言われている。
| 名前 |
森権平庵 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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巨大な草鞋[わらじ]が奉納されています。命日の8月18日にお堂が開放されて、祭が執り行なわれています。以下、『白鳥町風土記』(p.90〜91)から引用です。ーー◎権平庵 [略]本尊 森権平木像「森権平大明神、善住上人作」脇仏、観音菩薩、弘法大師由緒 墓自体が、新池の築造に当って移転されたものであるから、そのころの建設とも考えられる。明治40年に再建され、昭和54年12月、現在の如く立派なものが、庵主籔内ミツ女の努力と、多数の寄進者の力によって再興された。『仙石権平君木像之記』(権平庵所蔵)仙石権平君は、仙石侯秀久に仕え部将たり。天正十二年、侯の封を讃に就くや、讃と阿・予みな秦元親に服せり。故を以て侯は小豆島に次し、海浜より進む。元親自ら一万余人の将として、寒川郡田面に入り、既にして与田、丹生野に入る。七月十九日、香西上野(香川山城)、大西山城、(上野)等を遣わし、引田城に来攻す。我が軍二千余人を分けて三隊と為し、君及び仙石勘解由、仙石覚右衛門、各一隊の将として、引田中山に伏す。敵軍虞らず前みて、伏興るに遇いて敗走す。我兵北ぐるを逐って競い進む。元親遥に銃音を聞き、自ら麾下を率いて馳せ至る。我軍大いに敗れ、勘解由之に死す。君年甫めて十八、武力絶人なり。紅梅鴾毛[つきげ]の馬に跨がり、地利を視て返し闘う。稲吉新蔵人と馬上に相い搏ち、彼我重傷せしも、衆寡敵せず、力尽き技極まり、援兵至らず、卒に陣没せり。即ち其地に葬り、石を立て之を表す。人呼んで権平の墓と云う。閭里相伝う、僧有り夜之を過ぎて曰く、此れ何人の墓と為すかと。墓中に声有りて曰く、これ仙石権平戦死の所なりと。僧愕然として読経して去る。又僧有りて夜行す、一丈夫の擐甲騎馬する有り、之の謂って曰く、我が馬行かず、敢て師の手を煩すと。僧曰く、子誰と為すかと。答えず、之を視れば則ち墓なり。僧大いに驚き、明旦往きて見れば、墓側に書有り、仙石権平十八歳、紅鴾毛の馬に乗ると。僧謂う、必らず是の故なりと。補うに梅字を為す。是の夕、夢に見て曰く、辱くも大恩を荷う敢えて謝すと。奇異の没して将に三百年なり。其名朽ちず。士人其の墓を過ぎれば、必らず下馬して拝跪す。蕘童[じょうどう]、牧豎[ぼくじゅ]と雖も称頌[しょうしょう]せざるは莫し。蓋し、其の忠勇義烈の感、然らしむるなり。古人曰く、豹死して皮を留め、人死して名を留むと、之れ君を謂うか。君の本姓は森氏なり。姓仙石氏を賜う。時に日下秀行は、君の姑夫[こふ]為り、子秀矩を生む。故に日下氏世々君を奉祀す。藩士日下奉時は其支属なり。人と為り俊爽、兼ねて文武に志あり。君の忠烈を追慕すること尤も切なり。頃者[ちかごろ]、工に命じて木像を刻作し、墓側の庵に奉安して、士人をして益々尊敬せしめんと欲するなり。来って予に告げて曰く、君の威名は赫々として泯[ほろ]ぼすべからざるは、固より像の有無に繋[かかわ]らざるなり。其の事跡を顧みるに、未だ紀載あらず、願わくは述あらんことをと。嗚呼、君の事を聞く者、誰か感奮せざらんや。況んや親しく其の像を拝するにおいておや。抑々亦以て、奉時追慕の誠を見るに足る。是に於て記す。慶応元年歳次乙丑秋七月本藩儒員 三野知充謹撰(裏面)日下奉時、余に此の記を刻すことを請う。余奉時と、平生魚水の交を為す。因って辞することを得ず、拙劣を省みず刻す。 辱交、山崎勝全。