徳川郷の義重公夫妻墓。
徳川館跡の伝新田義重の宝塔の特徴
徳川義季の館跡に位置し、新田義重の宝塔が存在する場所です。
菩提を弔うために建てられた新田義重夫妻の墓が点在しています。
武家の棟梁・源義家の孫、新田義重の歴史を感じることができます。
義重公は粒々辛苦し、手塩にかけて築いた荘園を、長男義俊公に里見郷、二男義範公に山名郷、三男義兼公に本家新田氏、4男義季公には徳川郷をと、それぞれ分け与え、ここで夫婦して悠々自適の晩年を過ごし、やがて大往生を遂げたのだろうか…鼻をつくネギの香りの中で、からくも原形を留めている宝塔を目にして、ぼんやりと想像を巡らせる。案内板の末尾には、昭和の墓地整備の際に、宝塔の基礎の下などから人骨入りの陶器の壺が2個発見され、新田荘歴史資料館に…とある。🅿️なし。2025/9/14
案内板があります。所在地(読めず)新田義重の二男(あるいは四男)義季は、父より新田庄内徳川(読めず)などを譲られ、徳川に館を造り、徳川氏を称した。義重は義季を特に愛し、夫人と共にこの館において晩年を送り、没後邸内に葬られたと伝えられている。古来よりこの一郭は、義重夫婦の墓所と伝えられ、徳川幕府により特別に保護されてきた。宝塔は凝灰岩製で、現存部分の高さは140cm、相輪上部を欠失し、屋蓋は三個に破損し鉄箍が巻いてあるが、塔身・基礎等はなお良く、造立当初の形を存しており、往時をしのぶことができる。傍らの塔も凝灰岩製で、今は基礎が遺存するのみだが(欠失した時代は不明)、宝塔と同時代に造立された塔と考えられる。なお宝塔の屋蓋は三個の切石で造られたようになっているが、地震が他の災害で倒れ、三個に割れたのを割目を削り取り、鉄箍をかけて整えたためであろう。塔身および軒口の厚さに比較して小さく感じられるが当初は一つの石で現在より大きかったと考えられる。鉄箍には、「天保八年丁酉七月」の刻銘がある。修理した時の銘であろう。昭和四十五年二月の墓地整備の際、宝塔および他の基礎の下より、一個ずつ立派な四耳壺の灰釉陶器(肩部に四個の撮のある草木灰を釉とした壺)が出土し、いずれも火葬骨で満ちていた。遺骨は塔下に埋葬し、骨壺は満徳寺に保存されている。二個とも宝塔と同時代の瀬戸、常滑の焼成と考えられる。昭和五十五年三月(読めず)
八幡太郎義家の孫であり新田氏の祖である源義重の墓と伝えられる石塔です。畑の中の一角にぽつんと建っていました。新田氏は足利氏と並ぶ源氏の名門。ですが鎌倉幕府における地位が低かったことや異母弟の義康を祖とする足利氏が隆盛を極めたため、後世の私たちから見るとどうしても日陰の存在に見られがちなのかもしれません。そんな寂しさを感じながら手を合わせてきました。
徳川義季の館跡にある、伝新田義重之墓で新田義重は徳川義季の父親で、菩提を弔うため建てたようです。
世良田東照宮から利根川の方へ歩いて18分位新田義重夫妻墓、平地の畑の中石はヒビ割れ崩れかかっている物も。wikiでは源頼朝挙兵の際に様子見をしたので、足利氏に比べ冷遇される元になったとか。発掘調査で出土した壺は大田市立新田荘歴史資料館に展示されています。
畑のど真ん中に新田氏の祖 義重公夫妻の墓と言われ石塔が並びます。ここからは火葬炭の入った壺が発掘されたそうで、その壺は新田荘歴史博物館に展示されていました。
源(新田)義重は武家の棟梁として名を馳せた八幡太郎義家の孫で、新田氏の祖。 新田義重は夫人と共にこの地にあった館で晩年を送り、古来よりこの一郭は義重夫妻の墓所と伝えられ、徳川幕府により特別に保護されてきたそうです。
| 名前 |
徳川館跡の伝新田義重の宝塔 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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縁切寺満徳寺遺跡公園の裏側に、新田義重宝塔への道しるべがあったので、道に迷うことはありませんでした。ただ、宝塔がネギ畑の真ん中にあるように見えたので、畑の中を歩いて良いのか戸惑いました。近づくとネギに隠れて、宝塔への石畳の小径がちゃんとありました。新田義重の二男義季が、父から領地を譲られ、ここ徳川に館を造り、徳川氏を称したので、ここが徳川発祥の地といわれているのですね。元は源氏の末裔新田氏なので、徳川家も源氏の末裔という話ですね。新田義重は義季を特に愛し、夫人と共にこの館で晩年をおくり、没後邸内に葬られたと伝えられているそうです。 今は一面のネギ畑ですが、かつてはここに新田義季の館があったのですね。以下は、新田義重宝塔近くにあった案内板の内容です。太田市指定重要文化財徳川館跡の伝新田義重の宝塔●所在地太田市徳川町三八八番地六●指定年月日 平成元年(一九八九)二月一日新田義重の二男(あるいは四男)義季は、父から新田荘内德川・女塚・押切・世良田・上平塚・三ツ木・下平塚などを譲られ、徳川に館を造り、徳川氏を称しました。義重は義季を特に愛し、夫人と共にこの館で晩年を送り、没後邸内に葬られたと伝えられています。古来からこの一郭は義重夫妻の墓所と伝えられ、徳川幕府により特別に保護されてきました。宝塔は凝灰岩製で、現存部の高さは一四〇㎝、相輪上部を欠き、屋蓋は三個に破損し鉄箍が巻かれていますが、塔身・基礎等は、造られた当初の形を残し、往時をしのぶことができます。 かたわらの塔も凝灰岩製で、今は基礎が残るのみですが(欠失した時代は不明)、宝塔と同時代に造られた塔と考えられます。なお宝塔の屋蓋は、三個の切石で造られたようになっていますが、地震か他の災害で、三個に割れた石を削り、鉄箍を掛けて整えたと考えられます。塔身および軒口の厚さに比較して小さく感じられますが、当初は一つの石で、現在より大きかったと考えられます。鉄箍には、「天保八年丁酉七月」の刻銘があります。修理した時の銘と考えられます。昭和四十五年二月の墓地整備の際、宝塔および他の基礎の下より、立派な四耳壺の灰釉陶器が二個体出土し、いずれも火葬骨が入っていました。遺骨は塔の下に埋葬され、骨壺は新田荘歴史資料館に保管されています。二個体とも宝塔と同時代の瀬戸・常滑焼と考えられます。令和七年(二〇二五)二月太田市教育委員会。