歴史を感じるデンシンヤー探訪。
海底電線陸揚室跡の特徴
弾痕が生々しい建物が見られる場所です。
歴史を感じられる不思議な体験ができます。
怖さを伴うダート道が入口の印象です。
沖縄県指定史跡 海底電線陸揚室跡(電信屋)令和3(2021)年 8月27日指定通称「デンシンヤー」と呼ばれているこの施設跡は、1897(明治30)年に建てられたもので、沖縄本島や日本本土、台湾間の通信に利用された海底電線の中継地として約半世紀にわたり、その役割を果たしてきた場所でもある。1895(明治28)年の日清戦争終結後、台湾が日本領となると、陸軍省は台湾の監視と植民地政策の推進を図るための軍事的目的に基づいて、1896(明治29)年に臨時台湾電信建設部を設立し、鹿児島から奄美大島、沖縄本島、石垣島を経て、台湾の基隆までを結ぶ海底電線を敷設した。その際、日本本土と台湾を結ぶ海底電線の重要な中継基地として、1897(明治30)年に海底電線陸揚室が建設された。同時に、石垣市字大川12番地に八重山通信所が開設され、石垣島と西表島を結ぶ支線の敷設も行われた。開通した海底電線は、当初、陸軍省が管理していたが、1898(明治31)年に逓信省に移管され、軍事通信の傍ら一般公衆用の通信にも供用された。なお太平洋戦争の際には連合国軍の攻撃目標となった。外壁に残る無数の弾痕がこれを示している。敷地内には、建物のほか貯水用タンク、石積、井戸などが現存する。洋式の建築技法が用いられた建物の内部は、試験室と休憩室の二つに仕切られている。建物防護用の石積みは、海側に面した南東側と南西側に設けられている。このように、海底電線陸揚室は1897年に造られた通信施設であり、日清戦争後の台湾経営など近代日本の政策や軍事に関する遺跡である。また、沖縄県が近代の通信情報網に組み込まれた社会情勢を示すとともに、八重山諸島における沖縄戦の痕跡を残すことにおいて重要な史跡である。関連する施設の整備状況那覇-石垣間の海底ケーブルの敷設と海底電線陸揚室の整備と平行して、現在の市街地の石垣市字大川12番地に八重山通信所が建築されました。陸揚室で海上より陸揚げされたケーブル線は電信柱により八重山通信所まで繋いだとされます。海底電線陸揚室からクウドウまでの間は、アングル2枚合わせで下部が二又となった鉄骨製の電信柱、クウドウから新川の「ツンマーセー」(現在の新川西端)までの間は、アングル2枚合わせの鉄骨製の電信柱、市街地に入り新川の「ツンマーセー」から大川の八重山通信所までは杉丸太の電柱でした(①)。通信所の建物は、木造で赤瓦が葺かれ、後に正面入口には、左側に『八重山郵便局』、右側に『八重山電信局』の看板が掲げられました(②)。昭和頃には、八重山電信局の北側の道路は、「電信通り」と呼ばれ慣れ親しまれていました(③・④)。八重山電信局には、東京で講習を受け特別に技術を取得した通信員と、石垣島出身で鹿児島の練習所で講習を受けた補助員が配置されました。なお、度々、電信線が不通となることがあり、修理の間、電報は船便で対応したと当時の新聞記事に見ることができます。関連したエピソード電信屋が整備された後の1905(明治38)年5月25日のことです。当時日本は、日露戦争の真っただ中でした。宮古島の西北海上を航行していたバルチック艦隊を宮古島の漁師が発見し、宮古島の駐在所に駆け込みました。この報告を受けた宮古島庁島司の橋口軍六は直ちに緊急会議を開き、当時、宮古島には通信施設がなく、敵艦隊の北上を石垣島の通信施設から知らせることを決定しました。島内の久松地区出身の5名が選ばれ、刳船に乗り石垣島の東海岸に渡り、八重山郵便電信局から「戦艦見ゆ」と打電したのでした。しかし、この知らせは、別の信濃丸が発した第一報より遅かったため、石垣島からの電報自体が日露戦争の日本海海戦に直接的な影響を与えることはなかったとされています。しかし、日本海海戦から25周年にあたる1930(昭和5)年頃より、その「勇敢さ」は選ばれた5人が宮古島久松地区の漁師であったことから「久松五勇士」として教科書や新聞、雑誌で取り上げられます。愛国の物語や地域の英雄として称賛され、美談として取り扱われるようになりました。1942(昭和17)年6月発刊の『旅』「戦艦見ゆ」の中で、伊波南哲は、「海戦記念日のたびに思い出する”こと・・・・胸の熱くなる」と紹介しています(⑤)。また、1935(昭和10)年6月4日から石垣島の八重山館(映画館)では、『南海の大和魂』と題した映画が上映されました。当時の新聞では、群民待望の大映画!「南海の大和魂」「久松五勇士物語」と大きく宣伝されています(⑥)。船の着いた場所は、石垣島の東海岸とされていることから、日本海海戦から約60年後の1966(昭和41)年、石垣島北部の伊原間公民館横に「久松五勇士上陸之地顕彰碑」が同顕彰碑建立期成会により建立されました。碑文には「五人の青年の愛国心勇猛心責任感をた〃え永く記念する」と記されています(⑦)。説明板の内容を文字起こししてみました。
石垣島の崎枝にある「電信屋跡」は、観光ガイドにはあまり載っていないけれど、知る人ぞ知る歴史スポット。第二次世界大戦中に旧日本軍が通信施設として使っていた場所で、石垣島の西部に残る数少ない戦跡のひとつ。今は石碑がひっそりと建てられていて、当時の面影を静かに伝えている。周囲は自然に囲まれていて、セミや鳥の声しか聞こえないほど静か。石碑の横から少し歩くとビーチに出られて、そこからの眺めがまた素晴らしい。透き通った青い海が広がっていて、戦争の記憶が眠る場所とは思えないほど穏やか。過去と現在のギャップに、ちょっと胸が詰まるような気持ちになる。ただし、ここにたどり着くまでが少し冒険。車1台分の幅しかない細い道で、しかも舗装されていないボコボコのダート。対向車が来たらアウトな道なので注意!運転には注意が必要。雨のあとはぬかるむこともあるので、時間に余裕をもって行くのが安心。静かで人もほとんど来ないけれど、その分、石垣の自然と歴史をじっくり感じられる場所。観光というより“記憶に触れる時間”を過ごしたい人にはおすすめ。足を運ぶ価値のある、心に残るスポット。
正式名称は海底電線陸揚室跡で、M30(1897年)海底電線を陸揚げする中継地として建設されたとの事。大半の建物は戦争により破壊されましたが、この電信屋だけが残り、戦争の悲惨さを残す建造物としてR3沖縄県指定史跡になっているようです。ここから徒歩で数秒移動すると、名蔵湾の絶景が広がります。
プライベートビーチ感が満載行くまでの道のりは、ガタガタの道のためレンタカーの運転には特別注意をした方が良い。
日本と台湾を結ぶ電信屋の跡地です。いつ崩落するかわからないとのことで、非常に貴重な跡地です。駐車場はなく、アクセス途中の道も悪路ですので、訪問には気を使います。天気の良い日に行くことをおすすめします。近くには、綺麗なビーチがあります。
御神崎へ行く途中にスクーターで行きました。通りから入り未舗装路を数百メール進んだ突き当りに有りました。戦争時の建屋が有り当時の痕跡を見れる貴重な場所です。下にはキレイなビーチがあり訪れる人が少なく、このような場所が好きな人は行ってみたら良いと思います。
元日に訪問。グーグルナビの通りですんなり到着できますが、舗装路から牧場の中の道の砂利道をしばらく走ります。運転注意です。すれ違いもできないので対向車来たら大変かも。道の突き当たりに建物があります。廃虚です。戦争の生々しさを感じます。ビーチもすぐそこなので綺麗な海とのギャップがすごくて、平和の尊さを実感しました。
電信屋跡は史跡としては興味深い場所でした。また、ここに行く道には孔雀がよくいます。ただし、車ではそこそこ厳しいかと思います。ビーチには珊瑚がたくさん落ちていますが、水中はさほど美しくはありません。水深2mぐらいの海域がずっと続きます。金属の箱に珊瑚がくっついているのは、どことなく歴史を感じさせます。
台湾が日本領になり軍事的に海底電線を敷設する必要が出た時に設けられた施設です。第二次大戦で連合軍の標的となり、その弾痕が残っている貴重な史跡となっています。当時のまま残っているので、朽ちていて、中には入れません。すぐ先には海岸もあります。行き方は牧場の角に標識があり、車一台が通れるだけの凸凹な道が数100m続きます。道は凸凹が大きいので、かなり気をつけないと車の底を擦る可能性が高く、運転に自信ない人は、標識付近で車を止めるのが無難です。ただし標識付近には駐車場はないです。駐車場は凸凹道の先に数台が止めれるスペースがあります。Google MAPではうまく道案内してくれないので、直角に曲がった道にある標識を見つける必要があります。
| 名前 |
海底電線陸揚室跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0980-83-7269 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.ishigaki.okinawa.jp/material/files/group/41/denshinya.pdf |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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車1台通れますが 陥没している箇所があったので お気をつけを。孔雀の羽根を見つけました。孔雀に遭遇するかもです。