半田山で響く、午砲の伝説。
半田山の午砲台の特徴
午砲台は訪れるのに少し手間がかかる立地です。
隠れた歴史を感じられる場所で、探索感が魅力です。
周辺は静かな環境で、心落ち着く時間が過ごせます。
第17師団が設置した砲台で、1909年から1929年まで正午を知らせる号砲(午砲)を打っていましたが、その後伊島尋常高等小学校に移され戦時の金属回収により撤去されたそうで、現在のものはそれを復元したものです。現地には陸軍用地を示す境界石が2本確認できましたが同じものが津高の陸軍墓地と法界院駅近くの北富用水にもありました。
凄くわかりにくい場所にありましたが。明治から大正にかけて庶民に正午を知らせる号砲が置かれていた場所です(╹◡╹)80年ぶりに復元され午砲台が置かれています☆ドン山とも呼ばれていたようです(*^^*)
| 名前 |
半田山の午砲台 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
〒700-0081 岡山県岡山市北区津島東3丁目2−6−4 ミルトニア |
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以下、地元史誌より引用です「明治42年元旦から、半田山東部の南尾根の台上で、日露戦争戦利品の八鎖(センチ)砲による午砲(正午の号砲)が始められました。発車の合図は偕行社(現岡山県スポーツマンクラブ)の二階の窓から、旗で行ったと伝えられています。大正14年(1925)、第17師団の廃止に伴って大砲は岡山市に寄贈され、市はその後も午砲を継続しましたが、火薬代3円20銭・人件費1円33銭等の諸経費は年間2000円の出費となり、また市街地には電車の騒音等で砲声が届かなくなったため、昭和3年(1929)に廃止されました。その後、大砲は、伊島小学校の校門内に展示されていましたが、第二次世界大戦中に供出されてその姿を消しました。」とあります。現在の砲台は岡山理科大学付属高校の機械科の生徒と岡山理科大学が発掘・復元したものです。出土した石柱、2本の石組みも砲台と併せて復元されています。史誌には明治42年、つまり1909年から午砲が開始されたとありますが合図を出す偕行社は1910年に完成したので初めの1年間はどこか他の場所から合図を貰っていたのでしょうか。現在、JFE晴れの国スタジアム(旧シティライトスタジアム)と木々に阻まれて偕行社を見ることはできませんがスタジアムは見えることからきっと見晴らしは良かったのでしょう。アクセスは半田山墓地の中央を縦断するコンクリート舗装の道を通り、ちょうどコンクリート舗装が終わる辺りを左に入っていくとたどり着けます。岡山理科大学・付属中高校の関係者以外立ち入り禁止区域には入らないように気をつけましょう。