稲屋妻城の歴史を歩こう。
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稲八妻医師茶園跡の案内板の横に「稲屋妻城」の案内板があり何処にあるのか探すと、タンク山の付近がそれらしく入り口にセンサーやフェンスが有り、おそらく近づけないなと思いましたが徒歩でならタンク山の頂上まで登っても良いように歩道がありました。頂上には東屋もありちょっとした休憩もでき木津川方面の景色が見渡せます。稲屋妻城の正確な場所は分かってないようで恐らくこの付近だと呼ばれています。
名前 |
北稲屋妻城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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この看板のある場所の上に白い配水池がありますが、ここを城山と言って、山城国一揆の終焉の地、稲屋妻城があったと伝わっています。遺跡、遺物などは出てきていないので、落城の時に跡形もなく破壊されたというところでしょう。さて、山城国一揆とか稲屋妻城とは他の都道府県の人には馴染みがないですが、簡単に言うとこんな感じです。1485年当時の南山城地域は「お前達は神仏に納めた以外で生活しなさい」と奈良仏教界に言われ、何百年にわたり経済的に負担を強いられていました。またそのような中で、さらに守護の畠山氏がここで戦争を始めたので、我慢の限界に来た南山城の住民達が1485年に反乱を起こして、支配者の畠山氏を追放して自治を始め、次に奈良に攻め込んだというものです。最終的には一揆勢は稲屋妻城で1493年に全滅しますが、この山城国一揆は南山城が一丸となって当時の支配者に抵抗した一種の独立記念的な出来事で、この稲屋妻城はそのシンボル的な史跡になります。なお、この山城国一揆以降、この地域の名前は京都の南という意味の「南山城」という表現が多くなります。