信長公の命日 法要で魅せる。
織田信長公・信忠公墓所の特徴
織田信長の命日には阿弥陀寺で法要が行われ、多くの参拝者が訪れます。
入山料を支払うと信長公の墓の由来が書かれた資料を受け取ることができます。
手水場には織田木瓜の家紋があり、歴史的な雰囲気を感じることができます。
写真の撮影日時は古い順から①2025.08.02(土)13:20~13:32 ②2026.05.11(月)16:31。織田信長公や嫡男信忠公、そして、本能寺の変で犠牲となった家臣たちの墓所や供養塔は東海地方や京都など各所にあるが、こちらは、蓮台山阿弥陀寺にある織田信長公・信忠公及び三男(または四男)の神戸(織田)信孝公の墓所である。その墓所の周りに信長公が本能寺に入ったときに同行した側室や、家臣森蘭丸、力丸など三兄弟など近臣の物故者の供養塔が囲むように並んでいる。例えば、京都市東山区に豊国廟というのがあり、豊臣秀吉公の墓所と伝わるが、豊国廟の供養塔や墓石と比べて小さいのが特徴である。しかし、幼少のときから信長公のもとで暮らして出家した当時のこちら阿弥陀寺のご住職の清玉上人が、炎に包まれた本能寺と、信忠公が自刃して果てた二条御新造へ駆けつけて物故者の骨を拾い集めて葬儀を行い、急ぎ墓を建てたというから、リアルといえばリアルである。掲載する写真は 冒頭 2 枚だけが2025.08.02(土)のもの、残りはすべて 2026.05.11(月)のものである。今年は織田信長・信忠公及び本能寺の変の物故者の忌日ではなく、織田信長公の生誕日といわれる 05.12, 05.28(天文3, 1534、日にちは共に旧暦)のうち、05.12 を選び、暦(中国・唐の長慶宣明暦に基づくもの)を見て、日取りの良い 05.11 にお参りした。こちらの最寄りは京都市バス“出雲路神楽町”停留所など。合掌。
令和6年 8月16日 京都夏の旅☀️🍉🌻🏊織田信長公 本廟 石碑阿弥陀寺は、織田信長公の遺骨が埋葬されている、最も有力な本廟(墓所)の一つです。本能寺の変の際、開山の清玉上人が信長と織田信忠父子らの遺骸を運び出し、火葬して当寺に埋葬したと伝えられています。清玉上人は織田家と深い親交がありましたが、豊臣秀吉の寄進の申し出を拒否したため、秀吉が怒り大徳寺に総見院を建てて法事を行ったという逸話も残っています。これにより、阿弥陀寺の墓所は広く知られなくなった一因とも言われています。
開山清玉上人は、急報に接して本能寺へ駆けつけますが、既に信長は自刃していました。森蘭丸はじめ近習の武士に遺骸を託され、阿弥陀寺に運んだとされます。開山清玉上人は、織田家で育った僧であり、信長・信忠父子を救出しなければ、供養しなければとの強い想いを持って行動したものと思います。
戦国の覇王織田信長公とその嫡男信忠公のお墓です。京都には歴史上の人物のお墓は多いですが、織田信長はさすがに知名度があまりに高いので見に来ました。初めて見た感想は、覇王のお墓なのにかなり小さい。石畳を敷き、基壇を設けてかさ上げはしているので一目で信長のお墓だとはわかるものの、家臣の五輪塔のほうが大きい。謀反の末に自害した者故なのか🤔脇には信長の小姓で、同じく本能寺の変で亡くなった森蘭丸はじめとした森兄弟のお墓も。死しても尚、主君信長のお傍にいるところが何とも健気。御朱印も頂くことができまして、真ん中に堂々と信長の家紋織田木瓜が入った格好良さ極まりないものです。厄除、災難除けになりそうな気がします。
信長の墓は、京都だけで5ヶ所もありますまず立派な御廟のある寺町御池の今の本能寺そしてここ阿弥陀寺ですその他にも大徳寺総見院、大雲院、妙心寺玉鳳院がありますしかし特にここ阿弥陀寺と本能寺のものが有名です信長の命日には、この2カ所を続けて墓参される方もおられるそうです織田信長の命日は1582年6月21日ですが、旧暦の6月2日に、ここ阿弥陀寺では信長忌の法要が行われています一般参拝者も焼香させていただけるそうです本能寺でも同日に信長公忌の法要が行われて、各種イベントもあるそうです信長公の墓所のお参りは寺町通りに面した阿弥陀寺の山門から入ります山門の左側にある石碑は、この寺に織田信長公の墓があると示すものです三門は閉じられてることがありますが右脇の入口は開いていますからそこから入って下さい正面は本堂です左手奥の本坊のインターホンを押して下さい応答があったら本坊の中に入り、入山料を納めます本坊と本堂の間をつなぐ渡り廊下の先が広い墓地になっています手水場の前を過ぎて、突き当たりが、織田信長公の墓です左手に森蘭丸の墓もあります手水場の石や白い塀の壁に織田家の家紋の「織田木瓜」(おだもっこう)がありますこちらもお見逃しなく織田信長の墓は、その他にも全国に15ヶ所以上もあるそうですしかし入山料を納めると、織田信長公の墓がなぜこの寺に在るのかの経緯が詳しく書かれた紙を頂けますその内容を読むと、こここそが本当の信長公の墓だと思えて来ますなぜこの寺の御廟が、本能寺に比べて簡素であるのかの理由もそこに記されています。
本能寺で亡くなった織田信長や家臣の遺品を埋葬しているお寺で。信長の遺体は埋葬されてないみたいです。
| 名前 |
織田信長公・信忠公墓所 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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(織田信長と信忠父子の本能寺の変の時の壮絶な最期の大河ドラマでは描かれなかった隠された本当の史実とは?)ドラマでは信長は『無防備で孤立していた』と描かれがちですが、実は本能寺には一定の護衛があり、信長自身も槍や弓で奮戦して自ら寺に火を放ったとされています。また嫡男・信忠は単なる父の付き添いだけでなく、すでに織田家の家督と権力を譲られた事実上の天下人として行動していました。大河ドラマでは描かれることの少ない歴史史料に基づく詳細は以下の通りです。⦿自ら御殿に火を放った:ドラマでは明智軍が本能寺に火を放つ演出が定番ですが、当時の記録『信長公記』や『天正記』には信長自ら奥御殿に火を放ち鍵をかけて切腹したと記されています。⦿遺体(首)が見つからなかった理由:信長が遺体を完全に灰にするよう火をかけたためと言われますが、黒人な従者・弥助が信長の首を別の場所に隠したと言う説も存在します。いずれにせよ明智光秀は信長の首を確認できず、これが後に政治的な大打撃となりました。嫡男・信忠の壮絶な戦い⦿すでに当主であり、『天下人』だった。変の直前、信長は信忠に家督『尾張・美濃の支配権』などを譲っていました。信忠は単なる息子の立場でなく、実働部隊を率いる織田家の棟梁として二条城に滞在していたのです。⦿脱出可能だったが自害を選んだ。明智光秀の軍勢に囲まれた際、信忠は当初脱出を試みて優勢に戦っていましたが、本能寺がすでに炎上したことを知ると、父の後を追うように二条御新造で切腹し、わずか26歳で最期を遂げました。