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名前 |
飯野村立 飯野中学校跡 石碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
飯野陣屋二の丸に当たるこの場所には、かつて方墳の稲荷塚古墳があり、墳丘上に稲荷社の祠がまつられていた。稲荷塚古墳は、大正十三年(一九二四) 三月七日、文部省により「飯野村方形古墳」として、割見塚古墳とともに史蹟仮指定を受けていた。方墳の存在が、当時はまだ稀少な存在として認識されていたことから、仮指定の措置を受けるに至ったと見られる。墳丘の高さは「高さ十三四尺」と記載されていることから、四メー トル前後の比較的高い墳丘であったことがわかる。しかしながら、終戦後の昭和二十三年(一九四八) 一月、この地に新たに新制中学校である飯野中学校が建設されるに当たり、稲荷塚古墳の墳丘が未調査のまま削られるという不祥事が起きた。このことについて、当時の飯野村教育長が千葉県教育委員会に始末書を提出したと言われる。当時たまたまこの地を訪れていた考古学者の大場磐雄は、砂岩切石積みの石室があったこと、人骨が出土したことなどを記録に残している。飯野村立飯野中学校は昭和二十二年(一九四七) 五月十日、当初は飯野小学校校舎を間借りして開校し、同年十月三十日新校舎建設に着工、昭和二十三年(一 九四八)五月五日に木造平屋建ての校舎が落成した。その後、昭和三十年(一九 五五)三月の町村合併に伴って富津町立飯野中学校となった。昭和四十二年(一 九六七)四月には、富津中学校・飯野中学校・青堀中学校が統合され、飯野中学校は富津中学校飯野校舎と呼ばれた。昭和四十五年(一九七〇)四月八日、富津 中学校の新校舎落成に伴い、飯野中学校は廃校となり、跡地は更地に戻された。平成二年(一九九〇) 十一月、内裏塚古墳群確認調査の一環として、稲荷塚古墳跡地の発掘が行われ、墳丘辺長二十一メートル・周溝外辺長三十九メートルの方墳であったことが改めて確認された。その調査の際に石室の切石の一部も検出 されている。なお、内裏塚古墳群中の方墳である割見塚古墳・亀塚古墳・野々間古墳はいずれも二重周溝が確認されていることから、当古墳も二重周溝を備えていた可能性が強い。また、飯野陣屋の絵図によれば、稲荷塚古墳の東には煙硝庫(火薬の保管場所)が置かれていた。【現地案内板より抜粋】飯野陣屋濠跡の周囲を歩いていると、広い敷地と案内板、石碑が出て来ます。学校跡地と言うだけあって、かなり広大です。本丸の二辺を取り囲む形で二の丸、その外側に三の丸で形成されています。学校建設により古墳が破壊されてしまったことは悔やまれますが、現状保護をしていって貰いたいです。