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名前 |
北方町下渡公民館 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
ゆえに、腐歴女の聖地ここは、長谷川秀一の生誕地といわれ、長谷川屋敷があった場所です。長谷川秀一は、本能寺の変の際の伊賀越えをやってのけた人物です。小姓時代、長谷川秀一は、信長の【男色相手】として深く寵愛され、織田家臣時代は、「長谷川竹」という呼び名で呼ばれていました。織田氏家臣・長谷川与次の子として生まれた秀一は、織田信長に小姓として仕え、矢部家定と共に若年より諸事に用いられた文献がのこっています。天正3年(1575年)1月30日付けの信長書状で、この時秀一は伊勢で長島城復旧工事に従事する石運びの宿の手配を行った記録があります。天正6年(1578年)6月、播磨神吉城攻めの際には検使の大津長昌と共に派遣され、菅屋長頼・矢部家定・万見重元・祝重正と番替で検分を行っています。天正6年12月有岡城の戦いで万見重元が戦死天正7年(1579年)1月万見重元が戦死により安土(現・近江八幡市安土町)で邸宅の入れ替えがあって、旧万見邸が秀一の邸宅となり、旧長谷川邸には高橋虎松が入った記録があります。長谷川より上席であった万見の死亡により、席次の繰り上がりがあったと思われ、以後秀一は奉行衆としてより重要な役目を与えられていったと思われます。天正7年(1579年)5月27日安土宗論では浄厳院の警備担当の一人に名を連ねる。宗論に敗れた日蓮宗側は詫証文を提出したが、その宛先は菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の3人とされています。以後、菅屋・堀と組んで3人で仕事をする機会が何度かあり、伴天連屋敷地造営の奉行や安土の馬場建設の奉行などを3人で務めたとされています。天正8年(1580年)12月猪子高就・福富秀勝・西尾吉次と4人で高天神城包囲中の徳川家康の陣に派遣され、3日ほどにわたって現場を視察した後、同月22日に帰国しました。天正9年(1581年)4月13日野々村正成と共に領地を大きく加増されます。天正9年12月5日近江国で美人局を行って東善寺の延念に強請をかけた八という男の一味を野々村と共に捕縛し、糾問にかけた上で成敗しましたが、野々村と長谷川両名が近江の信長直轄領で代官職を務めていたことが分かり、また、両名は佐久間信盛追放後の近江の栗太郡・野洲郡の代官も務めていた人物でした。天正10年(1582年)1月15日左義長の時には菅屋長頼・堀秀政・矢部家定と秀一の4人で馬廻衆・小姓衆を引率して凱旋しました。天正10年3月信長に従って菅屋長頼・堀秀政・矢部家定・福富秀勝と秀一の5人が馬廻衆を率いて甲州征伐に出陣しましたが、既に織田信忠によってほぼ武田家の討伐は完了していたために戦闘はなく、秀一が行った仕事は甲府で行った武田勝頼側近の秋山万可斎・昌成(摂津守)親子の処刑ぐらいでした。天正10年5月19日安土に戻って摠見寺で行われた徳川家康歓待の宴に参加し、20日には高雲寺で家康の饗応を丹羽長秀・菅屋・堀と共に行っています。21日には家康が大坂の堺を見物に行くことになったが秀一はその案内役として西尾吉次と共に家康一行に帯同しました。天正10年6月1日堺の津田宗及宅の茶会に家康・穴山梅雪と共に参加しています。天正10年6月2日そして、■■本能寺の変■■は起きました。日食が起きた翌日のことと記録がのこっています。本能寺の変の一報は当日の深夜には、堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった一行に、茶屋四郎次郎によって届けられました。秀一は土地鑑に乏しい家康一行の案内を買って出て河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明。また、急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導いた。その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口甚介の父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して逃げ、窮地を脱したとされます。その後、秀吉に仕え、名前を「長谷川藤五郎秀一」「羽柴東郷侍従」と変えて行きました。文禄元年(1592年)より始まった文禄の役では、兵5000人を率いて朝鮮へと渡り、10月より細川忠興等と共に晋州城の攻略に参加し、昌原において朝鮮の将・柳祟仁を野戦で撃破したが、晋州城の攻略には被害を多く出して失敗しています(晋州城攻防戦)。その後も朝鮮に留まって戦を続けていましたが文禄3年(1594年)2月、同地で病を得てそのまま亡くなったとされます。しかし、死亡を帰国後とする書もあり、『当代記』では同年1月の伏見城普請の交名の中に名前が載せられており、その後の2月に亡くなったとされています。秀一に嫡子はなく、長谷川家は無嗣断絶しました。