復元された城門と歴史散策。
田辺城址 (舞鶴城)の特徴
舞鶴市にある田辺城は、細川幽斎が築いた歴史的な名所です。
復元された大手門と櫓が存在しており、見応えがあります。
公園として整備されており、散策や歴史学習に最適です。
●2025/9/17に訪問しました。前日に福知山城・竹田城址・立岩などを巡り、昨日舞鶴市に泊まり朝の散歩がてらに来てみました。実に立派な城門資料館や二重櫓があり舞鶴城公園として整備され広々とした気持ちの良い空間でした。城郭ってどこも街や市民の誇りであり、ランドマークとしての役割があり、ここは市民の憩いの場・公園であるようです。※気になるので縄張り図と現状を紐解いてみました。城門など建物は模擬復興でいずれもこの場所にはなかったもので、本丸の北郭がほぼ残り内堀の石垣などが現存のようで、天守閣はもともとなく櫓天守のようです。道路を挟んで今の警察署あたりが、本丸西側侍屋敷があり黒金門が本丸からの出入口であったようです。地理的・経済的条件で、廃城前の姿を再現するのも中々難しいもので、今ある遺構を後世に残す事はとても大切ですね。
この田辺城は別名舞鶴城とも云い、京都府舞鶴市南田辺に位置します。この田辺城は江戸300 藩の一つで、立藩は元和8年(1622年)京極高知が亡くなると、京極高三が35000 石で入封する。京極家以前は細川藤孝(幽斎)の居城であつた。しかし、寛文8年(1668年)三代高盛の時、但馬国豊岡に移封となる。その後は譜代大名の前京都所司代の牧野親成が摂津国から入封し、牧野家が10 代続き廃藩置県となる!牧野家は文教振興に力を入れた藩主として知られる!6代目宣成の時は天明年間(1781年-1789年)に藩校明倫斎を設立した。後に明倫館となり、現在の明倫小学校の前身となる!明倫小学校には、田辺城跡の正門が移築されていて、歴史を感じさせる景観である!?
Tanabe Castle (Maizuru City)◾5Elements Origin【・Access】・Train & Bus (Choose your route):From JR / Kyoto Tango Railway Nishi-Maizuru Station→ Walk west (approx. 5–7 min) via the castle street.From Kyoto Station→ JR Limited Express (Direct / approx. 1h 40 min) → Nishi-Maizuru Station → Walk (5–7 min)【・Time】・Stay:45–60min・Open: Park Grounds: 24h (Free to enter)*Tanabe Castle Historical Museum (inside the gate): 9:00–17:00 (Closed Mondays & New Year's holidays)【・Outfit】・Footwear:Comfortable walking shoes are recommended. The park is mostly flat, but paths consist of packed gravel, lawn, and flagstones around the ruins.・Clothing:Casual clothing. The park is well-shaded by cherry blossoms and historic trees, but standard outdoor wear is ideal for strolling around the ramparts.【・Infrastructure】・Parking:Free public parking lot available directly at the park premises (approx. 15 spaces) for park visitors and museum guests.・Restrooms:Available inside the park grounds and the museum building. Well-maintained and equipped with wheelchair-accessible facilities.・Accessibility:The main park grounds and paved walking paths are flat and wheelchair accessible. However, entering the upper floor of the historical museum involves steep indoor wooden stairs.【・Area Info】・Eat:No restaurants inside the park. Cafes, and seafood restaurants are located within a 5-minute walk around Nishi-Maizuru Station and the shopping streets.・Stay:Several business hotels, traditional urban inns, and guesthouses are highly concentrated right around Nishi-Maizuru Station.−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−田辺城・舞鶴公園(舞鶴市)◾5Elements Origin【・Access】・電車 & バス(ルートを選択):JR・京都丹後鉄道 西舞鶴駅 より→ 西方向へ徒歩(約5〜7分)大手門通りの正面に位置JR 京都駅 より→ 特急「まいづる」(直通 / 約1時間40分)→ 西舞鶴駅 → 徒歩(約5〜7分)【・Time】・滞在時間: 45–60分(復元された大手門、本丸跡の石垣、庭園、門内の資料館の見学時間)・開放時間:公園敷地:24時間自由*田辺城資料館(大手門内部):9:00–17:00(月曜休館・年末年始休み)【・Outfit】・靴:歩きやすい靴が推奨。園内は平坦に整備されているが、未舗装の砂利敷きや芝生、石畳のエリアが中心となるため。・服装:落ち着いたカジュアルな服装。園内には桜の木や歴史ある樹木が多く日陰も多いが、散策に適した服装が理想。【・Infrastructure】・駐車場:公園敷地内に来園者・資料館利用者用の無料駐車場(約15台)あり。・トイレ:公園内および資料館内に公衆トイレ(多機能トイレ併設)が設置。綺麗に管理されている。・バリアフリー:公園内のメイン遊歩道は平坦で、車椅子やベビーカーでの移動は可能。ただし、大手門2階にある資料館内部へ上がる際には急な木製階段があり非対応。【・Area Info】・食事:公園内に飲食店はなし。西舞鶴駅周辺や周辺の商店街沿いに、ローカルな定食屋、居酒屋、海鮮を扱う食事処、カフェが多数あり。・宿泊:西舞鶴駅の周辺にビジネスホテルや都市型の旅館、ゲストハウスが多数。
田辺城は元は舞鶴(ブカク)城とも呼ばれていた。また湾の入り江が深く、荒々しい日本海岸には稀な場所で鶴が舞い降りて来られるような穏やかな港でもあり舞鶴(マイズル)とも言われている。その昔「織田信長」は近畿支配の野望を持ち、少ない兵力で大決戦なしに各拠点を落として行く方法で日本海の交易や山陰方面への足がかりとしていた。総指揮者である「明智光秀」は実行部隊である細川藤孝・息子の忠興と手を組み、また秀吉が密書でそそのかした為に北方近畿、丹後の豪族「一色氏」を細川家だけで攻略している。(1579年)信長にとって光秀・藤孝の関係を強固にし政権安定する為に光秀の娘(ガラシャ)と藤孝の息子忠興を結ばせている。藤孝は隠居後は(幽斎:ゆうさい)と名乗っている。彼は古今和歌、古典、茶道、料理など学問や芸能の文化人であった。その後、関ヶ原の戦い(1600年)の同年前哨戦として石田三成の西軍15000人から田辺城の東軍500人で52日間籠城戦で戦う。その際、後陽成天皇の助力もあり(藤孝が和歌の第一人者でもあり和歌などが途絶えさせない為)生き延びている。芸は身を助けるか⁇それと同時に一部西軍が関ヶ原の戦いに向かうことへの足止めも大きく果たしていたのである⁈(東軍家康の関ヶ原の勝敗に大きく貢献していた!......)その前には藤孝は「家の存続」を維持継続する為にも、信長政権の打倒を目指した光秀から誘われていた共闘もその基盤の弱さを見抜いて拒んでいる!その後は豊臣政権秀吉の死後をも補佐していた「石田三成」の体制基盤弱さや忠興夫人ガラシャが西軍の人質にされそうになり、自害した為に忠興と共に西軍に決別している.......。それにより東軍家康から勲功よろしく大分の熊本城に移り住み、細川家は「家の存続」に成功している!
田辺城の跡になります。現在では公園として整備されていますが、石垣などの遺構を随所で確認することが出来ます。復元された櫓などもキレイで見応えあるので、結構楽しめました。
城跡を公園として解放されており、敷地もそこそこ広くゆっくりした時間が過ごせた。観光地として整備されており見やすい。駐車場はすぐ横にある駐車場(有料)に止めて見学をお勧め。1578年(天正6年)織田信長の命によって守護大名の一色義員か満信を滅ぼし、丹後を制圧した。丹後制圧後、現在の京丹後市には忠興の弟の興元が峰山にある吉原城を居城にし、長岡藤孝(幽斎)は、はじめは宮津城を居城としたが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、経営の中心地としている。隠居後は、子の忠興を入城させた。慶長5年7月19日(1600年8月27日) 、9月6日(10月12日)にかけて、丹後田辺城をめぐり起こった戦い。関ヶ原の戦いの一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎・細川幸隆(東軍)を攻めた。その間この城で籠城し、「古今伝授の書」が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられた城にもなる。歴史ロマンが溢れている場所。
2025/08/10に訪問しました。細川藤孝が整備し、関原後は京極三代後牧野氏が廃藩置県まで存続、後廃城。昭和15年に復興した木造二重櫓、近年模擬復興された櫓門が資料館して運営されています。又、天守石塁は近年に発掘、整備せれた様です。資料館は、小ぶりですが意外と充実し200円とお手頃。館内も撮影OKで、夏場は涼めるしお勧めです。
裏から入ったせいか狭い石垣の上はやや物足りなさを感じたが、近代に再建された城門とその上の資料館は見ごたえがある。細川忠興、その父藤孝ゆかりの城跡。
舞鶴公園として整備されている、田辺城址。当時の遺構あり、復元された櫓や門もあり、資料館もあり、広場も有りと、地域の方の憩いの場としても城好きとしても楽しめる場所となっている。城址の上手い活用、保存の仕方だと思った。
| 名前 |
田辺城址 (舞鶴城) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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京都の田辺城の歴史と由来は?京都府舞鶴市にある田辺城跡(舞鶴公園)は1580年頃に細川幽斎(藤孝)が築城した丹後経営の拠点で別名『舞鶴城』とも呼ばれます。関ヶ原の戦いの前哨戦『田辺城籠城戦』の舞台として知られ、幽斎が守り抜いた城として有名です。田辺城(舞鶴城)の歴史と由来⦿築城と由来天正8年(1580年)頃、織田信長の命で丹後を平定した細川幽斎(藤孝)・忠興親子が築城を開始。⦿地名を田辺と改め伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に平城として築かれました。⦿歴史的舞台『田辺籠城戦』(1600年)慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前哨戦において、西軍(石田三成方)1万5000の軍勢に対し、500人の兵(幽斎で50以上籠城。)⦿幽斎が古今和歌集の奥義(古今伝授)の継承者あったため、朝廷が勅命して、和睦し、開城に至るという異例の結末を迎えました。⦿城のその後江戸時代は細川氏、京極氏、牧野氏の居城となり、丹後田辺藩の政庁として約290年機能しました。⦿明治6年(1873年)の廃城令により廃城となりました。ちなみに、田辺城は別名『舞鶴城(ぶかくじょう)』と呼ばれており、これが現在の舞鶴市の市名の由来となっています。