スポンサードリンク
スポンサードリンク
名前 |
勘重郎堀跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.0 |
この堀の名称になっている勘重郎とは、18世紀の天明から寛政年間にかけての香川村の名主であった三橋勘重郎のことです。かねてより香川村の田畑は天水に頼る他なく、度々飢饉に見舞われていました。名主の三橋勘重郎はこれを鑑み、下寺尾村の駒寄川より灌漑用水を香川へ引くことを思い立ちますが、下寺尾と香川では領主も異なり許可を取り付けるのに苦労したそうです。幕府の許可が下り、駒寄川の下寺尾池端(茅ヶ崎博物館付近)に堰を設け、香川までの導水工事では下寺尾の村民も多いに協力したとのことです。導水後灌漑は安定しましたが、それでも領主による年貢の取り立ては厳しいままで、勘重郎は単身江戸へ赴き幕府に年貢軽減の直訴に及びました。嘆願は聞き入れられたものの、勘重郎は捕らえられ処刑されてしまい、これを憂慮した香川村の村民は村中総施主という異例の形で供養塔を立て、勘重郎の霊を弔ったといいます。その供養塔は現在村西部の浄心寺に残されています。堀は現在その大部分が埋められてしまい、一部が遊歩道となっていますが、玄珊寺付近では比較的良好に堀跡の形態を伺うことができます。