復元桟橋で寄せる母の思い。
平引揚桟橋(復元)の特徴
復元された桟橋は、引揚者が祖国の地を踏んだ歴史的な場所です。
終戦直後に660万人が帰国を果たした、重要な意義を持つ施設です。
岸壁の母の舞台としても知られ、感慨深い景色が広がっています。
復元された桟橋が何という訳ではなく、かつて先祖や英霊が祖国の地を踏んだ場所に立ち、想いを巡らせる場所。周りには何の賑やかしも無く、当時のままひっそりと桟橋は佇んでいます。
平成6年5月、引揚者の方々が帰国の第一歩を踏みしめた橋の復元だそうです。当時は、今の3倍の長さとの事。早朝の引揚桟橋は、朝霧かかり波穏やかで、眼前にクレインブリッジを望むとても美しい景色です。平和への願いを末永く発信して欲しいです。
引揚記念館へ早く到着したので割と早い時間に行きました。地元の方が釣りしてました。桟橋付近が浅瀬の為、沖に停船し小舟で桟橋まで人を運んだらしいですが、散々ソ連で移動の度に「帰国させてやる」と騙されいろんな所に連行されたので中々、上陸しなかった(出来なかった)らしいです。哀しすぎる。
当時の引揚者と同じ景色を見ていると思うと感慨深いものがあります。平和祈願の鐘を鳴らすことができます。
戦後13年間にわたりソ連邦、中国大陸などからの引揚げを対応した場所となります。こちらは復元された引揚桟橋です。当時色々なドラマがあった事でしょう。この歴史を忘れる事なく語り継いで欲しいです。
復元とはいえ当時を偲ぶ良い施設だと思います。
終戦直後660万人が日本に帰れない状況にあった。舞鶴港は、終戦まもなく昭和20年10月引揚港に指定されて以来13年にわたり、主に旧ソ連邦、中国大陸等から六十六万人余りの引揚者と祖国の礎となって無言の帰国をされた一万六千余りの御霊を迎え入れた。幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国への感激の第一歩をしるした桟橋。(資料より)
平桟橋(たいらさんばし)は京都府舞鶴市の東部。京都府舞鶴市平の湾の南東にあります。平桟橋とは、昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結後、中国東北部や朝鮮半島からの帰還者やソ連に抑留された引揚者が、夢にまでみた祖国の土を踏んだ地であり、引揚桟橋とも呼ばれます。現在の平桟橋は復元で、記念碑なども立っております。全国に知られるた「岸壁の母」は、ここで引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をモデルに生まれた歌です。付近の丘には舞鶴引揚記念館があり、シベリアの地で使用したコートなどの防寒着や文書類など、全国から約1万6千点の貴重な資料の寄贈を受け、常設展示にて1000点を超える展示をおこなっており、平成27年(2015年)に収蔵資料のうち570点がユネスコ世界記憶遺産に登録されました。引き揚げとは、昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結し、日本人が中国東北部や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国に約660万人の残され、これらの方々を日本へ帰国させるため、開始されました。全国に18港の引揚港が設置され、舞鶴は主に中国東北部・朝鮮半島・シベリアからの引揚者を迎え入れる港となり、昭和20年(1945年)に最初の引揚船が入港してから昭和33年(1958年)の最終引揚船の入港まで13年間にわたり約66万人もの引揚者を迎え入れました。(2021/3/7撮影)
ここは復元桟橋です。元はもう少し北側に二ヶ所あったと聞いています。桟橋には大きな船🚢が着けないので沖で小舟に乗り換えて桟橋へ。岸壁?(整備されていない土手)に大勢の家族が出迎え。でもいつ帰って来るか連絡はないので待ちぼうけの家族もたくさんあったことでしょう。今それを思うだけで涙涙😢。
名前 |
平引揚桟橋(復元) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0773-75-8600 |
住所 |
|
評価 |
4.1 |
周辺のオススメ

綺麗な景色の元、戦場や捕虜収容所から帰還された人々や無念にも遺骨として戻って来た方々、待ち望んでいた親族の人達の事を考えてしまうとなんとも複雑な気持ちになります。