市民の森ふじやま公園近く、粟久保神社の手書き看板。
徳川家康公 休息所(天正十九年)の特徴
粟久保神社(第六天社)が近くにあり、立ち寄りやすい休息所です。
市民の森ふじやま公園帰りに便利なウォーキングコース上に位置しています。
丸山城址公園への途中で立ち寄れる、手書きの看板が目印です。
手書きの看板がある人の家。
お気に入りのウォーキングコース「市民の森ふじやま公園」の帰りに、「丸山城址公園」に向かう途中で、この前を通ります。
名前 |
徳川家康公 休息所(天正十九年) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
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地図でみるとすぐ東にある粟久保神社(第六天社)の稿に此の休息所の事が書かれている。江戸の頃のこの場所の紹介文を下記に書す。❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】[神主多田勘解由(かげゆ)]吉田家配下。昔は社守(粟久保神社)であったが、勘解由の父の頃に神主となった。多田勘解由の先祖である神保和泉は田中村に居住していた。その頃、北条氏の家臣である 神保宮内輝広(龍散寺の開基)というものが、当所に居住していたが、永禄元年7月になくなり、家は断絶となった。それゆえ、神保和泉が当所に移り住んで、神保の家を継いだという。この時、神保の姓を改めて、多田と称したという。徳川家康の東国入国の後、家康がこの辺りの御巡見(ごじゅんけん・みまわりの意味)の時に、和泉が宅地に御床几(しょうぎ・腰掛の意味)をすえさせられし事があった。その時家康が社領を寄附したと云われる。御床几の跡に、石地蔵を立てた。とある。背に天正19年卯11月日と彫ってある。これは近き頃に(ちかごろ)建てた物で、御朱印を賜った年月が彫られている。とある[所在地] 粟久保村。