多摩川沿い 大石橋で春を満喫。
大石橋の特徴
江戸時代初期に開削された南関東最古級の用水路があります。
多摩川の土手を走るチャリ道沿いに位置しています。
大山街道が二ヶ領用水に架かる風情ある石橋です。
二ヶ領用水に架かる橋。大きな石の橋が架けられていたことに由来。脇街道である大山街道(二子・溝口宿)の要所に位置し、江戸時代から旅人の往来で賑わっていました。
多摩川の土手を走りニケ領用水の取水口から用水に沿ったチャリ道を、溝の口に向けて軽快に春を満喫してしばらく走るとこの大石橋に差し掛かる。溝の口の外れともあり人通りも少ないので零れ桜が舞うニケ領用水に棲み、暮らしているたくさんの鯉も心なしか穏やかでゆったり泳いでいるのだ。
大山街道が二ケ領用水に架かる風情ある石橋です。
青山通り大山道(矢倉沢往還)の橋。二ヶ領用水に架かる。車両通行可能。
| 名前 |
大石橋 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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川崎市を流れる二ヶ領用水(にかりょうようすい)は、江戸時代初期に開削された南関東最古級の農業用水路です。1590年(天正18年)の多摩川の大洪水で流路が変わり、地域の農業基盤が脆弱になったため、新田開発と治水が必要となり、徳川家康から命を受けた用水奉行(代官)の小泉次大夫吉次が陣頭指揮を執り、1597年(慶長2年)に着工。地域の農民の力を合わせ、14年の歳月を費やして1611年(慶長16年)に完成しました。全長約32kmに及ぶ水路網により60ヶ村の広大な田畑が潤され、ここで獲れた米は「稲毛米」と呼ばれ、将軍家の御飯料や江戸のすし飯として重宝されました。工事には女性も多く動員されたことから、「女堀」と呼ばれたこともありました。大正から昭和にかけて周辺の都市化が進むと、農業用水としての役割は徐々に減少し、1939年(昭和14年)には、余剰水を利用した日本初の公営工業用水道として活用され、川崎の臨海工業地帯の発展を支えることにましたが、高度経済成長期(1960年代〜)の急激な都市化に伴い、大量の生活排水が流れ込む「どぶ川(排水路)」と化し、水質が著しく悪化しました。その後、1990年代に下水道が完備されると、浄水場で処理された高度処理水が環境用水として流されるようになり、市民による清掃活動も相まって清流を取り戻しました。現在の二ヶ領用水は、農業・工業の役割から「環境用水」「親水公園」へと完全に姿を変えました。2020年(令和2年)には、歴史的な土木遺産・産業遺産としての価値が認められ、市が管理する約9.2kmの区間が国の登録記念物(遺跡関係)に正式登録されました。二ヶ領用水の途中に位置する久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)は、下流への公平な配水を目的として1941年(昭和20年)に完成した分水施設で、1998年(平成10年)に川崎市初の国登録有形文化財に登録されました。二ヶ領用水に接続する久地円筒分水から流れる4つの堀(水路)のうち、現在も開渠(かいきょ/蓋がされていない水路)で親水公園として親しまれているのが、本流の「川崎堀」です。この川崎堀は全体の約3/4(77.4%)という大量の水を引いているため、都市化が進んだ後も埋め立てられたり蓋をされたりせず、開渠として残され、その一部が二ヶ領用水の親水公園となっています。一方で、残りの3つのルート(根方堀、六ヶ村堀、久地堀)は、周辺の都市化に伴って、その多くがコンクリートの蓋で覆われたり、道路の下に埋められたりして暗渠化(あんきょか)されました。写真の根方堀(ねがたぼり)[配水比率:約15%]は、流れる方向が円筒分水から南(溝の口駅・梶が谷方面)へ向かいます。円筒分水を出てすぐ暗渠となり、JR南武線の線路下をくぐります。往時は多摩丘陵の山裾に沿って、津田山や下作延の斜面沿いを蛇行しながら流れていました。現在は大部分が道路(歩道など)や住宅地の下に埋設されており、最終的には平瀬川(ひらせがわ)へと合流、排水されています。完全に地下に埋まっている場所が多いですが、地上にはかつて水路だったことを示す、不自然に蛇行する路地として残っています。民家と民家の間に、また車が通れない細長いコンクリート蓋の通路も、それが昔、水路であった名残となっています。