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以下に私訳する。
中山範士之碑
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南麻布
記念碑
.
3.0
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以下に私訳する。剣道範士中山博道翁の没後十年,門弟諸子が互いに相談して,碑を建て,私(撰文者である「新田興」のこと)の弔辞にて頌徳することとした。記録を調べるに,中山博道は,明治六年二月に金沢市にて生まれる。父は源之丞であり,明治二十二年に上京し,斎藤理則に就いて剣を学んだ。明治二十四年,根岸新五郎の門下に入り,神道無念流を学ぶ。明治三十八年には,本郷真砂町にて道場を開き,子弟を養成する傍らに,土佐にて居合術を細川義昌に学ぶ。また筑前にて杖術を内田良五郎に学び,第六代相伝を受けた。大正二年には無念流第七代相伝を受ける。大正九年には大日本武徳会剣道範士,居合道範士の称号を受け,一等功労章を賜る。大正十一年には居合術第十八代相伝を受ける。昭和二年には杖道範士の号を受ける。昭和四年には御大典紀念の天覧試合審判員を勤める。昭和七年には有信館の本部を作る。子弟は一段と多くなり,宮内・海軍・警視その他の諸官署,東大・慶応・明治その他の諸大学の師範に任じられ,その道を全国にあまねく及ぼした。昭和二十年に終戦となり,横須賀拘置所に収容されるも,幾ばくもなく放免される。昭和三十四年十二月十四日に病逝する。享年八十九歳。麻布の仙台阪上にある天眞寺に葬られる。戒名は「大雄院殿夢想博道大居士」であった。その性格は穏やかで親しみやすく,村夫子の様であった。ときたま楽しげに蘭竹を描いた。文豪細田劍堂は嘗て私に「剣の奥を知る者が後輩にいる。中山博道は剣禅の名家だ」と語った。現警視庁主席師範の無得庵小川刀耕は「中山先輩の剣は,その妙を極めるものであったのだ」と感嘆していた。私と中山は旧知の仲であり,初見は江木欣欣女史が文武両道を篤く志したときであった。彼女は杖術の教えを中山博堂に,詩作を岩渓裳川に,経書を私に訪ねたのである。江木女史にこれらを教えていたところ,中山は私を話せる奴だと思い,酒を酌み交わして歓談に耽った。中山は,つねづね世道人心の退廃を嘆き,よく問うたのは文事のことであった。この文を目の当たりにすると,往時を追憶させられる。心乱され,感情を落ち着けることができない。かつて佐久間象山が力士雷電の碑を撰文し,自省して泣いたというが,いまや私も同じであり,涙を堪えることも危うい。(以下漢詩略)以下,翻刻する。中山範士之碑劍道範士中山翁博道歿之十年門弟諸子胥謀建碑頌徳謁文於予按狀曰翁明治六年二月生金澤市父源之丞二十二年上京就齋藤理則學劍二十四年入根岸信五郎門學神道無念流三十八年開道場於本郷眞砂町養成子弟旁學細川義昌居合術於土佐學内田良五郎杖術於筑前受第六代相傳大正二年受無念流第七代相傳九年受大日本武德會劍道範士居合道範士之稱號賜一等功勞章十一年受居合術第十八代相傳昭和二年受杖道範士號四年奉仕大禮紀念天覧試合審判員七年設有信館本部子弟彌衆任宮内海軍警視其他諸官署東大慶應明治其他諸大學師範厥道普及全國二十年終戰之變収容横須賀拘置所無幾放免三十四年十二月十四日病逝享年八十九葬麻布仙臺阪上天眞寺法諡曰大雄院殿夢想博道大居士翁性恂恂和易如村夫子時喜作蘭竹文豪細田劍堂嘗謂予曰後輩知劍之奥者有中山博道劍禪名家現警視廳主席師範無得庵小川刀耕曰中山先輩之劍噫極其妙者歟予與翁有舊初江木欣欣女史篤志文武以杖術聘翁以詩作聘岩渓裳川以經書聘予鼎立當之翁以予爲可語杯酒欵談毎慨世道之不振屢問以文事令臨此文追憶往時愴然弗克爲情昔佐久間象山敍力士雷電碑自省而泣予亦於是乎殆欲泣銘曰 劍道之技 勇武絶倫 乾坤義氣 護國精神 嗚呼我翁 維軌維範 術之攸臻 聿達天覧 草薙之炗 終古焰焰昭和四十五年三月二十二日 雲處 新田興 撰 敬堂 福島正義 書。
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出典:www.google.com
2024/2/9(金)
画像は著作権で保護されている場合があります。
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2025/2/9
中山範士之碑の詳細
名前
中山範士之碑
ジャンル
記念碑
住所
〒106-0047 東京都港区南麻布3丁目1
評価
3.0
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以下に私訳する。剣道範士中山博道翁の没後十年,門弟諸子が互いに相談して,碑を建て,私(撰文者である「新田興」のこと)の弔辞にて頌徳することとした。記録を調べるに,中山博道は,明治六年二月に金沢市にて生まれる。父は源之丞であり,明治二十二年に上京し,斎藤理則に就いて剣を学んだ。明治二十四年,根岸新五郎の門下に入り,神道無念流を学ぶ。明治三十八年には,本郷真砂町にて道場を開き,子弟を養成する傍らに,土佐にて居合術を細川義昌に学ぶ。また筑前にて杖術を内田良五郎に学び,第六代相伝を受けた。大正二年には無念流第七代相伝を受ける。大正九年には大日本武徳会剣道範士,居合道範士の称号を受け,一等功労章を賜る。大正十一年には居合術第十八代相伝を受ける。昭和二年には杖道範士の号を受ける。昭和四年には御大典紀念の天覧試合審判員を勤める。昭和七年には有信館の本部を作る。子弟は一段と多くなり,宮内・海軍・警視その他の諸官署,東大・慶応・明治その他の諸大学の師範に任じられ,その道を全国にあまねく及ぼした。昭和二十年に終戦となり,横須賀拘置所に収容されるも,幾ばくもなく放免される。昭和三十四年十二月十四日に病逝する。享年八十九歳。麻布の仙台阪上にある天眞寺に葬られる。戒名は「大雄院殿夢想博道大居士」であった。その性格は穏やかで親しみやすく,村夫子の様であった。ときたま楽しげに蘭竹を描いた。文豪細田劍堂は嘗て私に「剣の奥を知る者が後輩にいる。中山博道は剣禅の名家だ」と語った。現警視庁主席師範の無得庵小川刀耕は「中山先輩の剣は,その妙を極めるものであったのだ」と感嘆していた。私と中山は旧知の仲であり,初見は江木欣欣女史が文武両道を篤く志したときであった。彼女は杖術の教えを中山博堂に,詩作を岩渓裳川に,経書を私に訪ねたのである。江木女史にこれらを教えていたところ,中山は私を話せる奴だと思い,酒を酌み交わして歓談に耽った。中山は,つねづね世道人心の退廃を嘆き,よく問うたのは文事のことであった。この文を目の当たりにすると,往時を追憶させられる。心乱され,感情を落ち着けることができない。かつて佐久間象山が力士雷電の碑を撰文し,自省して泣いたというが,いまや私も同じであり,涙を堪えることも危うい。(以下漢詩略)以下,翻刻する。中山範士之碑劍道範士中山翁博道歿之十年門弟諸子胥謀建碑頌徳謁文於予按狀曰翁明治六年二月生金澤市父源之丞二十二年上京就齋藤理則學劍二十四年入根岸信五郎門學神道無念流三十八年開道場於本郷眞砂町養成子弟旁學細川義昌居合術於土佐學内田良五郎杖術於筑前受第六代相傳大正二年受無念流第七代相傳九年受大日本武德會劍道範士居合道範士之稱號賜一等功勞章十一年受居合術第十八代相傳昭和二年受杖道範士號四年奉仕大禮紀念天覧試合審判員七年設有信館本部子弟彌衆任宮内海軍警視其他諸官署東大慶應明治其他諸大學師範厥道普及全國二十年終戰之變収容横須賀拘置所無幾放免三十四年十二月十四日病逝享年八十九葬麻布仙臺阪上天眞寺法諡曰大雄院殿夢想博道大居士翁性恂恂和易如村夫子時喜作蘭竹文豪細田劍堂嘗謂予曰後輩知劍之奥者有中山博道劍禪名家現警視廳主席師範無得庵小川刀耕曰中山先輩之劍噫極其妙者歟予與翁有舊初江木欣欣女史篤志文武以杖術聘翁以詩作聘岩渓裳川以經書聘予鼎立當之翁以予爲可語杯酒欵談毎慨世道之不振屢問以文事令臨此文追憶往時愴然弗克爲情昔佐久間象山敍力士雷電碑自省而泣予亦於是乎殆欲泣銘曰 劍道之技 勇武絶倫 乾坤義氣 護國精神 嗚呼我翁 維軌維範 術之攸臻 聿達天覧 草薙之炗 終古焰焰昭和四十五年三月二十二日 雲處 新田興 撰 敬堂 福島正義 書。