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名前 |
小笹陣屋(小篠陣屋)跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.0 |
小笹陣屋跡と、壮大な内容の碑天正18年(1590年)小田原征伐後の徳川家康関東移封に伴い、家康家臣団は、関東一円に配置された。匝瑳郡小篠郷(現匝瑳市)には、本多縫殿介康俊が五千石の所領を与えられて東小笹に陣屋を構え、周辺地を治めることになった。本多康俊は、俗に徳川四天王と呼称されている家康の重臣酒井忠次の次男であったが、天正8年(1560年)に本多忠次の許に養子に入った。慶長6年(1601年)に関ケ原合戦の功により、三河国西尾藩に二万石で転封となり、以降小笹陣屋は廃止されたという。陣屋は約10年間存在した事になる。当寺慈眼寺には、当地に土着した本多家の末裔と伝わる江波戸氏による壮大な石碑が建立されている。一段落目には、地球・宇宙・万物の世界観が如何なるものであるかを哲学的に語る内容である。よって詳しくは記さない。(難解)それ以降は、当地に関する歴史を連綿と綴った内容である。歴史の概要としては、凡そその通りだろうが、しかし、所々疑問点もあるようである。南北朝時代(元弘の乱頃)、近江伊奈に居住の藤原北家流の子孫藤原道嗣が、近江遠江武蔵上総下総の国司に赴任していたころ、後醍醐天皇からの宣旨を受け南朝方に協力した事で、姓を藤原姓から本多姓に改める様帝より申し受けられた。更に帝の皇子尊良親王から当地に領地を頂いた。それが関ケ原合戦の功で近江に移封されるまで存続したという。藤原道嗣が当地へ下向中、武蔵国の某廃寺の中に放置されていた大日如来像を持ち帰り、屋敷内に祠を築いて安置した。この像は、道嗣先祖のかつての同族道家の子息藤原(九条)頼経(鎌倉幕府摂家将軍)が鎌倉に御堂を建立して安置した御仏であるという。此れを以て当寺院大悲山福聚院慈眼寺の開基であるとしている。また、寺院は、領主領民地域檀家等人々の支援で存続した事への感謝、人々の子孫繁栄家運隆盛(武運長久)を願うと共に、憂慮すべき現状に対する人々の努力を促している。さて、疑問点は以下。文中に登場する藤原道嗣(近衛道嗣:元弘三年(1333年)生誕) は、文の流れの中で中軸となっている最重要人物であるが、南北朝時代初期は幼子である為、国司赴任は疑問である(父基嗣ならば矛盾は無い)。西尾藩は、近江ではなく三河である。等々碑文が正しいとすると、家康関東移封による本多家当地配置は、元々本多家の知行地であり、偶然の配置ではなく、必然だった可能性があるが、どうだろうか。しかし、碑文の内容は、一層歴史ロマンを感じるものである事は、間違いないだろう。