紫陽花揺れる石川城跡探索。
石川城跡(大仏ヶ鼻城跡)の特徴
春には桜が美しく、夏には紫陽花が楽しめる、癒やしのスポットです。
石川城の歴史を感じる場所で、戦国ゲームファンにもオススメです。
見晴らしが素晴らしく、訪れる度に新しい景色を楽しめます。
石川城とは 公園になってる大仏ヶ鼻城から西側500m程に連なる「石川十三館」を含めてらしい 😲ヘー地形図アプリで見ると 丘陵に いくつか分かれた削平地がある 😯オー公園に段郭♪の跡が残ってて 頂上近辺からは付近が一望できる 🤠ヤッホーりんご🍎農園になってる館跡群には切岸♪が見れる 🤔フムフムもちろん改変されてて 遺構かどうかは わからないけど➰🤷♂️(人によって)想像しながら散策が楽しめる城跡🏯🚶♂️テクテク
一番てっぺんに城址の石碑が残されている。段々に曲輪割されていて、周囲を一望できるこの平山に城があったんだろうなあ、、、、、と。
2021年7月27日に訪れました。鎌倉時代に相模・曽我氏が、平賀一帯の地頭となったそうです。その地頭代として平広忠が岩館に入り、曾我氏を名乗ります。曾我氏が、ここ石川の地周辺に12の館を築き、石川館も含めた13の館の総称が、石川城と言われています。鎌倉時代が1333年に終わり、執権であった北条家の安達高景と名越時如が落ち延びて来て、大光寺城の曾我道性が匿いました。室町幕府側の曾我(岩館)分家の曾我光高に大光寺城は、攻められて落城しました。曾我道性らは、石川城に逃げ延びたそうです。その後、陸奥国司・北畠顕家や根城南部氏の南部師行らに曾我道性は、攻められて滅亡しました。南部氏は、1443年に十三湊安藤氏を渡嶋(蝦夷地・北海道)に追いやります。そして津軽一帯に勢力を拡大し、石川城には、後に田子城主だった南部高信が、天文2年1553年に派遣されました。彼は、津軽郡代となり、それ以後、石川高信と名乗ります。元亀2年1571年に大浦為信(津軽為信)は、堀越城を出発して石川城を急襲しました。その時に石川高信やその妻子は、自害したと言われています。この一件から大浦為信の津軽統一が開始されました。
桜から始まり、秋までの紫陽花癒される場所です。
GW頃は、遠目にも桜色になり、目立ちます。7月頃はあじさいが綺麗です。山頂と言うのでしょうか、展望も抜群です。中腹に今は入れませんが、洞窟があり、抜けられます。噂では城からの脱出のためだそうです。
見晴らしがステキ。アクセスは、だんだん道路幅が狭くなり、冬は注意が必要かも。弘前の歴史に想いを馳せるのに最高です。
完全に公園化しています。あじさい祭推しです。津軽為信に攻められて南部氏の無念を書き連ねた石碑があり、史跡であることを伝えていました。
石川城として訪ねて来ました。現在、城の遺構はさほど見てとれなくて、非常に残念でした。地形そのものでは、かなりの要害の地だったことが伺えます。かなり有名な城跡だと思いますが、地元でもあまり押してない様子です。どちらかというと、地元では堀越城跡や弘前城をおススメしているように感じました。自分的には浪岡城とここ石川城が気になっていたのですが、浪岡城は素晴らしく良く保存されていましたので、そちらで我慢するしか無いようです。
かの戦国ゲームでは有名な石川城 実は弘前城の前の名前だと思ってましたが、堀越城へ行って目と鼻の先と書かれていたので、急遽ここへ足を運びました。堀などの規模が分かりませんが、館のあったであろう所は、かなり急な坂で、攻め辛い城であったことを想起させてくれます。
| 名前 |
石川城跡(大仏ヶ鼻城跡) |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
|
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南部氏史跡。2020年10月18日来訪。南部氏において、津軽地方の統治を任された、石川高信の城。石川高信は、智勇を兼ね備えた名将で、兄安信から絶大な信任を受け、石川城で津軽地方の政治を任され、安信の跡を継いだ晴政にも信任され、重用された。石川高信の事績をざっと調べてみると…1495年、南部氏第22代当主政康の二男として、聖寿寺館に生まれた。田子館を居館とし、田子高信を名乗る。1533年、津軽郡代となり、石川城主に。この頃、石川氏を名乗る。1540年、高信は斯波氏侵攻の総大将として出陣し、雫石城から戸沢氏を追い、岩手郡に支配を広げた。1541年、第23代当主安信死去。第24代当主晴信を補佐。1546年、岩手郡一方井城において、高信の庶長子信直(第26代当主)が生まれる。1565年、信直が、嫡子がなかった晴政の養子になる。1568年、鹿角へ侵攻していた安東氏を、九戸政実と共に挟撃を行いこれを退ける。1570年、晴政に、嫡子晴継が誕生。後継者争いが勃発。(屋裏の変)1571年、堀越城の津軽為信の奇襲により石川城で自害。※1571年没説の他、1572年に津軽地方での乱を平定した同年岩手郡に侵攻してきた斯波氏に対して、九戸政実と共に、不来方城で数ヶ月に亘り戦ったという話もあるみたいです。本当に智勇兼備の御方だったんですね。いずれにしても、一族の中でも有力な高信の死は、後楯を失った信直が後継者争いで不利になる結果を引き起こし、安東氏や斯波氏との戦いで功績を上げた九戸政実の台頭を許し、津軽地方での為信の勢力伸長を許すこととなりました。その後の九戸の乱も、高信が存命であれば、起きなかったかもしれません。現地は平川沿いの小高い丘で、大仏公園として整備されています。丘の上からは奥羽本線が走っている様子が、よく見え、とてもよい景色でした。