日露戦争の影響を受けた宣教師の物語。
ローデスカ・ワイリック1856~1914アメリカの宣教師アメリカ合衆国オハイオ州マンスフィールドの貧しい農家に生まれる。1890年(明治23年)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日。5年間にわたり伝道活動に携わり、一時帰国、翌1896年再び来日し、教会を開いて伝道に努める一方、学習院や、府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教え、多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。また、当時偏見の強かったハンセン病患者の施設を訪問し、奉仕活動にも尽くした。日露戦争(1904~1905)が始まると、ワイリックは、戸山の陸軍病院に励まし、献身的な看護に当たり、いつしか「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになる。1914年(大正3年)4月3日東京赤坂の病院で死去。享年57歳。
名前 |
ローデスカ・ワイリックの墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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日露戦争時に活躍したアメリカ人女性宣教師。従軍したわけではなく、新宿戸山に送還された傷病兵を看病していたらしい。彼女は持病……というか癌の診断を受けており、自身の健康状態を差し置いて、兵士を励まし続けていたとのことである。この功績から、ローデスカは「オリエント(東洋)のナイチンゲール」と呼ばれていたのだという。墓石は特殊な形をしていた。これは海外でも珍しいタイプのものだそうだ。百聞は一見に如かずだが、一応、その形状を言語化しておく。まず、彼女の名前が彫り込まれた講壇状の台座がある。そして、その台座の上に石製の聖書台があり、その上に見開きの聖書を象った石彫が置かれている(なお、講壇と聖書台の間には菊科の花であろ彫り物が確認できた。)。最後に、聖書の見開き部分には下記の様な文字が刻まれていた。西暦一千八百五十六年六月八日北米合衆國オハヨー州(原文ママ)に生る。西暦一千八百九十年六月ドレーキ(原文ママ)大學卒業同年来朝。西暦一千九百十四年四月三十日永眠。かれ死ぬれとも信仰に由りて今なほ言へり希伯来書第十一章第四節まあ、写真を見た方が早かろうと思う。