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名前 |
村山大島紬糸水洗場跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
村山大島紬は,江戸後期文化年間に始まる「村山紺絣」と元治慶應年間に始まる「砂川太織」が母体となっている。そして,大正八年に伊勢崎市の「板締染色」等の技術が導入され,大正末期ごろに技術的な同化が起こって完成したといわれる。明治時代西多摩以北の絹織業者は,八王子(一大絹糸産地であった)の織物同業組合に編入させられていたが,村山大島紬が「最高級と言われる大島紬が買えない人向け。大島紬風の模造品」というコンセプトで全国的に名を馳せたことに自信をつけ,昭和四年七月に八王子織物同業組合から独立した。村山大島紬は,あくまでも近隣有力農家の副業的な位置づけであり,また農村の家庭内工業として行われたため,大量生産に不向きであった(本場大島紬よりは作業工程が短かったが)。これは八王子や青梅の機織りが早くから力織機を導入していたことと対照的であり,特に樹齢70~100年の水桜を使った「板締染色」は,7年前後の修行を要するものとされた。しかしながらそれ故に,伝統工芸性が高まり,昭和四十二年には東京都指定無形文化財に指定されている。当地は昭和四十年代まで使用されていた絹糸を洗う施設。