小代重俊の仁徳を感じる。
弘安四年銘板石塔婆の特徴
弘安四年銘板石塔婆は、小代重俊を慕った供養塔です。
銘文に込められた歴史的価値が魅力的です。
小代一族が協力して建立した文化財のひとつです。
小代重俊の供養塔です。
すばらしい。
名前 |
弘安四年銘板石塔婆 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/soshiki/55/3722.html |
評価 |
4.3 |
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埼玉県指定文化財弘安4年銘板石塔婆右奉為 前右金吾禅門一列諸衆合力建立也夫聖霊者撫民之徳惟深仁恵之情敦 因茲結面々慕従之好友修月々忌景之諸衆等 令廬之廟石永宛滅罪生善之霊 以祈光 之覚位以及累代之幽魂 等済幽顕同利之矣千時 弘安四年辛巳七月一日諸衆等敬白この銘文には小代氏四代目重俊の仁徳を慕って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したことが記されています。この板石塔婆が建てられた弘安4年(1281)は、蒙古襲来(弘安の役)の年で、一族の武運長久と団結を願う意味もこめられていると考えられています。小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(1247)鎌倉幕府から肥後国野原庄(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。当時はその地に赴かず、地頭代に所領の管理を任せていましたが、文永8年(1271)幕府から蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へ移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。平成16年3月埼玉県教育委員会東松山市教育委員会。