色部長門の歴史を感じる石碑です。
色部長門という米沢藩士の顕彰碑です。この顕彰碑が建てられた背景には、戊辰戦争において活躍し、戦死した色部に戦争首謀者の烙印を押して米沢藩の全責任を負わせることで、米沢が存続できたという事情があるようです。上杉伯爵邸の庭園を奥に進み、NHKの放送局の電波塔近くに建っています。色部長門が戦死したという新潟市関屋の戊辰公園内にも彼を顕彰する石碑が建てられているようです。以下は顕彰碑の背面に刻まれた原文を書き起こしたものです。詳細が知りたい方はぜひお読みください。「米沢藩士色部長門久長は文政八年十一月先代弥三郎篤長の長男として米沢市幸町旧越後番匠町に生れ若い時藩学の興譲館に学び助読定詰に進み嘉永六年五月三十歳で家を継いだ。色部家は上杉氏譜代の名門で代々城代又は家老の職についた重臣であった久長も亦当時の藩主斉憲公に仕えて江戸家老次いで国家老に任ぜられた。慶応二年四十二歳で世子茂憲公名代として当時物情騒然たる京都御警衛を命ぜられ滞京一年無事大任を果して帰った。慶応四年徳川幕府が瓦解し戊辰の戦役となり薩長の横暴を憎んで我米沢藩は奥羽諸藩と同盟を結び各方面に於て官軍と戦った 此戦役に長門は君命を奉じて総督として五月越後に出陣し新泻港に駐屯中幕吏の願を容れ港奉行を兼ね地方の警備港民の鎮撫に努力中たまたま七月下旬官軍が大挙して陸海両方面から襲い来たので之をむかえ撃ち悪戦苦闘し大いに米沢武士の面目を発揮したが同月二十九日惜しくも新泻市関屋で敵弾にたおれ従容として自刃し四十四歳で壮烈な戦死をとげた。終戦後米沢藩は官軍に抵抗した責を問われ一藩が将さに亡ぼされんとした場合に戦死した長門一身に全責任を負わせ一家断絶の罪に服させた。こうしたお蔭で興廃の岐路に立った米沢は事なく今日に続いたものだから長門は我米沢の大恩人というべきである。然るに当時は新政府を惮って何の顕彰の方法もなかったのである。今に至って其勲功を思うと我々米沢人たるものは黙して居られないのである。こんど米沢市が市制実施七十周年を迎えるに当り先賢の偉功に酬いる好機会なので同志西條信哉君の熱烈な提唱に依り市当局並びに市内外多数有志の賛同を得て色部長門顕彰会を組織し関係の深い旧上杉邸内に追念碑を建て其恩に酬い其忠烈を後世い伝えて英魂を慰めるのである。昭和三十四年八月 色部長門顕彰会々長 赤井運次郎同 実行委員長 西條信哉 謹誌阿部宇吉 書施工 石勝」写真撮影月 令和元年8月。
名前 |
色部長門追念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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上杉邸の裏にある石碑です。かなりの大きさがあり、説明板が併設されてますが、隣にあるラジオ施設に隠れて、分かりづらくなっています。もっと別の場所が無かったのでしょうか?