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名前 |
内須川城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
鎌倉時代から南北朝時代の山城跡です。関川郷の土豪 内須川左衛門尉 の山城と言われています。標高150mほどの低山なのですぐ登れますが、 史跡としては何の表示もなく整備もされていません。古城の知識がないと山城跡とは分かりません。しかし、空堀跡、曲輪跡、切岸跡など明らかに人の手で山を削った地形が残っていて、攻め込む武士の気持ちで登れば、何となく登りづらいのが分かると思います。関川村の歴史や、南北朝時代以前の土豪の山城跡が分かる貴重な場所だと思います。内須川左衛門尉は、平安時代後期から鎌倉時代の武士で、源頼朝側である幕府軍に着いて挙兵しました。南北朝時代の内須川氏は、同じ土豪と考えられている 色部氏(後の上杉氏の重臣)などと対立して失跡しますが、室町時代には復興して 越後黒川氏 の家臣として名を連ね、黒川氏が上杉氏に降伏すると上杉氏の家臣となったようです。戦国時代が終わると、豊臣秀吉の命で会津に国替えになった上杉景勝に従って、内須川氏もこの地を離れます。その後も上杉氏に仕えて米沢藩士となり、末裔は途絶えることなく今も続いています。なお、内須川村は内須川氏が離れてから、村上周防守→堀丹後守→本多能登守の領地になっています。参考:新潟県史、関川村史、越佐業書 第18巻、せきかわ歴史とみちの館の学芸員や関わる人の話より。