名将内藤昌豊公の跡を訪ねて。
内藤修理亮昌豊公之墓の特徴
天王山での壮絶な最後が感慨深い場所です。
武田四天王の意義を感じる立派な石碑があります。
本陣の側に位置し、歴史を体感できる場所です。
内藤昌豊は武田24将のひとりで、第二次武田四天王のひとりとしても知られた名将です。長篠の戦いで討死後、子の内藤昌月に旧領の群馬県高崎市の善龍寺へ葬られたと言われ、昌月と一緒に墓がならんでいるようです。長篠の地の墓碑は他の武将と同様に、墓というより後世所以地に建てられた石碑のようです。よく拝見すると明治以降の陸軍大将の記名があります。いづれにせよこの地で日本の行末を左右する大戦があり、勇敢に散った名将を讃える記念碑として、後世に参拝できることは嬉しいことです。
武田軍の武将。武田四天王の一人。内藤修理亮正豊の墓。
内藤昌豊公はいわゆる武田四天王の1人です。武田軍の副将格として信玄公のほとんどの合戦に従軍して、その都度手柄をたてた人物とされます。多くの手柄をたてましたが「内藤昌豊ほどの人物ならこれくらい当たり前」とされ、感状をもらうことは一度もなかったとされます。信玄公からは絶大な信頼を得ていましたが、武田勝頼公とはあまり上手くいかなかったようです。勝頼公からわざわざ「今後は粗略には扱わない」旨の手紙を受け取ったりしています。長篠・設楽原の戦いでは馬場信春公と共に殿を務め、最期は今川家臣の朝比奈泰勝公に討ち取られたとされています。
勝負が決した後、主君勝頼公を甲斐へ逃がす為、馬場信春公と共に踏み留まり、殿として奮戦され、壮烈な討ち死をされた武田家忠臣です。黒澤監督の影武者では志浦隆之さんが演じていました。
勝頼に戦場離脱を勧め、天王山で壮絶な最後を遂げた場所として感慨深いものがあります。
武田四天王、典厩信繁亡き後の武田副将格。
立派な石碑でした。かなり字は霞んでましたが。
本陣の側にあります。
| 名前 |
内藤修理亮昌豊公之墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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内藤修理昌豊公のお墓手を合わせる事が出来ました。駐車場有です。