幕末の侠客、柳川熊吉の碑。
柳川熊吉翁の碑(柳川熊吉翁之寿碑)の特徴
柳川熊吉の碑は、戊辰戦争での偉業を称える重要な石碑です。
箱館戦争で幕府軍の遺体収容に尽力した中心的人物が描かれています。
幕末の侠客道産子ヤクザに関する貴重な歴史的記念碑です。
平日昼間に訪問義挙を為した地元名士の記念碑戊辰戦争時に反政府側戦死者の弔いを禁止した政府に抗い弔った人物とされるこの行いを後世に伝える為に建立された足を伸ばしても良いだろう。
箱館戦争で戦死した幕府軍の遺体を回収し埋葬した中心人物です。その功績を讃えられ1913年、実行寺の住職により、熊吉の碑が碧血碑のそばに建立されました。
侠客、柳川熊吉の石碑。五稜郭の築城に協力して、柳川の氏をもらった人で、函館戦争後に、新政府の意向に逆らって旧幕府軍の遺体を弔った人。
幕末の侠客「道産子ヤクザ」の野村熊吉の碑。五稜郭築城のため、自ら人員を率いて箱館に。江戸柳川鍋を売っていたことから、「柳川熊吉」と名づけられた人物。。その後、箱館戦争が勃発。旧幕府軍の遺体が埋葬されず、箱館市内に放置されていたことに耐えられず、実行寺の住職らとこれらを埋葬。その罪により死刑をいい渡されるも、その義憤に感動した新政府軍の軍艦・薩摩藩田島圭蔵に助命される。※余談ですが、この田島はのちに北海道製麻会社の取締役、北海道炭鉱鉄道のオーナーになっている。自身も一度、イギリス人商人に命を助けられていることから、柳川熊吉に情けをかけたのか?とも。。明治4年に函館山山腹に自腹で土地を購入。明治8年に「碧血碑」を建立し、遺体を改葬。有志たちは熊吉米寿の大正2年、熊吉の義挙を讃え、この碑を建立。
名前 |
柳川熊吉翁の碑(柳川熊吉翁之寿碑) |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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柳川熊吉の碑は、碧血碑を建立する事になる中心的役割を果たした柳川熊吉の偉業を讃える石碑です。1869年(明治2年)幕末に発生した戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争が終結後、新政府軍の命令で町中に放置されていた旧幕府軍の戦死者 約800人を侠客の柳川熊吉が中心となり、日蓮宗 実行寺の住職 松尾日隆らとともに回収し埋葬しました。その際に建立されたのは碧血碑です。碧血碑についての詳細な由来としては、「勝てば官軍 負ければ賊軍」の言葉のとおり、旧幕府軍は賊軍扱いされ、旧幕府軍側の土方歳三を初めとする戦死者は、見せしめのために町中に放置するよう新政府軍側によって取り決められました。その遺体を勝手に埋葬すると犯罪になりましたが、見るに見かねた人が 柳川熊吉でした。彼は五稜郭築城のために江戸から人材派遣業を行うために箱館に移り住みましたが、侠気や男気あふれる人でしたので罪に問われる事もいとわず死体を埋葬しました。しかし新政府軍側に見つかる事となり死罪を言い渡されましたが、新政府軍の薩摩藩士 田島圭蔵は「これからの日本のために、こういう男を死なせてはならない」と考え、熊吉への打ち首を取り止めさせて彼は無罪釈放となりました。1874年(明治7年)8月18日に明治政府が正式に賊軍戦死者の祭祀を許可すると、箱館戦争の生き残りである榎本武揚や大鳥圭介らが熊吉と協力して、明治8年5月、この碧血碑を建立しました。晩年の柳川熊吉は、碧血碑の傍で余生を過ごしながら、1913年(大正2年)に89歳で生涯を閉じました。彼の88歳の米寿に際し、有志らは彼の義挙を伝えるため、碧血碑の直ぐ側に碑を建てました。その碑は今でも存在しているので、まるで柳川熊吉が見守っているようにも見えます。その他、ここは心霊スポットとしても有名のようですが、碧血碑建立に至る由来を勘案すると、いい年した良識ある大人が面白半分で来るべき所ではないのは、言うまでもありません。