明治からの稲作、歴史を感じて。
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妹背牛町総合体育館裏にある記念碑。妹背牛町で稲作が始まった歴史を伝えるもので裏側には稲作の歴史について碑文が書かれています。現在では水田が広がり大手飲食チェーンの契約農家も多い妹背牛町の歴史が感じられる史跡です。
名前 |
妹背牛町 水稲発祥の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
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以下、碑文妹背牛町は、明治二十六年に創設をみた七ケ農場により開拓の鍬が下ろされてから三年後の明治二十九年に小松秋盛氏が旧メム川沿いのこの地に五アールを造田し、新十津川より種子を求めて試作に成功したのが本町稲作の始まりで、明治四十年代から大正期にかけて急速に普及していった。入植当時は、原始林を伐採し木の幹は家の造作や薪炭に、枝は雑草と共に焼き払い畑の肥料とする豆類、粟、黍等の作付け中心であった。水稲の普及に当たっては、灌漑溝の完成や、客土、圃場整備による土地改良、幾多の苦難を乗り越えて稲作への意欲を持ち続けた先人の遺業の集大成として三三〇〇ヘクタールの美田が造成され、良品質、良食味の米どころ「もせうし」として発展するに至った。本年開基百年を記念して妹背牛町二世紀に向けて更なる発展を祈念し、先人の遺業を永遠に讃えるため妹背牛町水稲発祥の地碑をここに建立する。平成四年十月二十五日妹背牛町長 村上節次妹背牛町農業協同組合 伊藤猪五郎。