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名前 |
井石城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
井石の谷の東側、鬼木から波状に延びる岡の末端に井石城(室町期の城塞)がありました。山下には「城ノ前」の地名が残っています。山上には今も空堀や縦堀の跡が見られます。郷村記にも「東南の間の空堀の形あり長さ27間(49メートル)、横幅1間半(2.7メートル)ほど、堀より城の間およそ7間半(13.6メートル)」と書いてあります。室町末期にこの城に拠り井石を領し、前方の流鏑大権現(今の井石神社)を創建したのは、𡈽橋甲斐守橘公房でした。公房は、30代敏達天皇の流れから臣籍降下した橘諸兄を祖とする橘氏の子孫です。橘氏は、鎌倉時代に源頼朝より肥前国杵島郡長島庄(現在の武雄市)の地頭に任じられて鎌倉から入部してきました。分家し中橋と氏をあらため杵島山の北西のすそ芦原を領していましたが、享禄3年(1530)周防国の戦国大名大内義隆の侵攻に押されて波佐見の永尾にひそみ、大村領主大村家の家臣となり氏を𡈽橋に改めました。戦国時代末期、𡈽橋甲斐守橘公房の時代になり、天文14年(1545)大村家の実子貴明が武雄城主後藤純明の養子となる時、公房は貴明と共に武雄に移りました。のち貴明は龍造寺に屈し龍造寺隆信の三男家信が後藤家を継いだ為、天正13年(1585)公房は波佐見に帰郷しました。そして井石城を築き大村家に仕えることになりました。なお、公房の弟、𡈽橋舎人公祐の3代目が波佐見中尾郷の中尾次左衛門、のち捕鯨業で財を成し野岳湖を作る深沢義太夫勝清です。𡈽橋公房の子、作左衛門は大村喜前に従い朝鮮出兵で功を成し、江戸時代には波佐見から大村城下に一族で移住します。子孫は代々大村藩の普請奉行や、用人、江戸聞番、長崎聞役、大阪留守居役、宗門奉行、寺社奉行、持槍奉行などの重職を勤務しました。幕末の戊辰戦争では、指揮官を含む一族4名を派遣して旧政府軍の追討戦で忠勤を尽くしました。明治になると子孫はそれぞれ先祖の姓、橘と𡈽橋に氏をあらためて現代を生きています。