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千手村の人々が伝えて来た「天智天皇陵」。長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌或本反歌一首皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞皇(おほきみ)は神にし坐せば真木の立つ荒山中に海鳴するかも皇(天智天皇)は神でいらっしゃるから真木の立っている荒れた山の中にお眠りになっても、海鳴がすることだなあ。千手村中に千手寺あり、是に依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有り、里民は天智天皇の陵なりと云ふ。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜はりし事あり。其人天皇の崩じ給ふ後に、是を立給ふと云ふ。然れども梵字など猶さだかに見ゆ。さのみ久しきものには非ず。いかなる人の墓前にや、いぶかし。(嘉穂郡誌)維新以前は此塔の横に当る道路には牛馬の通行を禁じ凡そニ三丁前より左に当り替道を作り牛馬は之を通行せり(明治版 嘉穂郡誌)柿本人麻呂が天智天皇の第七皇子「志貴皇子」の助力を得て、千手氏とともにこの地に葬られたようだ。嘉穂郡誌の元の文章は貝原益軒のものだが、益軒は御荷塚と勘違いしたようである。(文責 福永晋三)