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名前 |
金毘羅大権現常夜燈 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
旧猪名川のほとりに、古びた灯籠がポツンと立っています。新猪名川が出来るまでは、旧猪名川は物資を船で運ぶ重要な物流網の一つだったそうです。その頃、橋を架ける事が大変なことから渡し船が旧猪名川の両岸を結ぶ重要な足となり、この灯籠がその目印とされていたようです。地域の歴史を語る生き証人として、結構重要な史跡なんじゃないかと思います。説明看板の内容を転載します。■金毘羅大権現常夜燈■この場所は、旧庄本村集落の西を南北に流れる猪名川(旧猪名川) 堤防と村の中心を東西に通じる道の交差する位置にあります。この道は、東は島江、牛立を通って小曽根から吹田方面、西は戸ノ内、神崎を通って尼崎市に通じていました。古代は難波から有馬温泉への道、中世にあっては「津戸の中道」として、砂州伝いに西宮より吹田に通じる道として 利用されました。江戸時代になって京に通じるところから「京街道」と呼ぶ ようになりました。橋がない時には庄本村と戸ノ内村の間に「渡し船」が人々の足になりました。江戸時代に入ってからこの川は物流に利用されました。池田、伊丹の酒、 周辺村々の年貢米等をここで積み替えて大坂等へ送りました。ここは又「三田屋の浜」ともいわれ、付近には船問屋がありました。川から水を引く上流の村々との軋轢、池田、伊丹の馬借や神崎の問屋と競 合しつつも随分繁盛したようです。ここにある灯籠は弘化四年(一八四七)の年号と重次郎他二名の人の名が 記されています。この川の「渡し」を示す目印、あるいは渡しの安全を祈願し たものか、猪名川通船の安全を祈願したものなのか今では判然としません。猪名川通船も渡しは今はなく、川には平安時代よりこの地域の呼称であ った「椋橋(くらはし)庄」に因んだ「椋橋」という名の橋が架けられ、新猪名川が開削されたことにより排水路となり、川の役割も変わりました。椋橋の傍らに建つこの灯籠は、かって身近に水と暮らしがあったことを残す数少ないこの地域の歴史遺産です。本文作成者:森本吉道・菅原敏二。