静けさの中に歴史を感じる。
曽根崎川跡碑の特徴
昭和51年に設置された曽根崎川跡碑には、歴史探訪に最適な地図が展示されています。
曽根崎川はかつて堂島川から分かれ、江戸時代にはしじみ川と呼ばれていました。
近松門左衛門の作品に描かれた新地は、歴史ある茶屋や商家が集まっていました。
日曜日は、静かでゆっくりと碑を見ることが出来、他にも色々とあって歴史探訪には良かったです。
曽根崎川跡碑は昭和51年(1976)に大阪市が設置したもので、川の位置を示す地図と川跡の説明盤となっています。この南横には木谷蓬吟の文章のある石碑が設置されています。曽根崎川跡碑には以下の説明が刻まれています。「曽根崎川はかつて堂島川から分かれてここから少し南寄りのところを東西に流れ、俗に蜆川(しじみがわ)ともいわれていた。元禄年間に河村瑞賢がこの川を改修してから堂島新地•曽根崎新地が開かれた。そのころの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々のつどうところとして親しまれ、このあたりからは北野や中津の田畑越に北摂の山々が遠望でき夏の夕べには涼み船がこの川からこぎ出たという。近松門左衛門の作品には堂島新地•曽根崎新地を舞台にしたものがあり、なかでも「心中天網島」(1720の作)の一節名残の橋づくしには当時曽根崎川にかけられていた難波小橋•蜆橋•桜橋•緑橋•梅田橋の名がたくみにとりいれられている。しかしこの曽根崎川も明治42年(1909)の北の大火後に上流部、ついで大正13年(1924)には下流部が埋立てられ、昭和20年(1945)の戦災でこのあたり一帯は焼失したが、今日では北の新地としてにぎわいをとりもどしている。昭和51年春 大阪市」
堂島は江戸時代文字通り島だった。堂島はお堂がある島という意味。
石版みたいな。
大江橋上流部で北西へ堂島川から分流し、堂島一丁目と曽根崎新地一丁目の境界道路北側をほぼ西方回へ弧を描きながら流れ、船津橋付近で再び堂島川に合流する川があった。これが曽根崎川で、蜆川、梅田川、下流では福島川ともいった。元禄初期、河村瑞賢(かわむらずいけん)により改修され、曽根崎新地や堂島新地がひらかれ、茶屋がならび賑わった。明治42年北の大火後、焼跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、大正13年にはすべて姿を消した。川には上流部から難波小橋、蜆(しじみ)橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた。近松の名作「心中天網島(てんのあみじま)」の道行き「名残りの橋づくし」によみ込まれ、有名であった。
曽根崎川跡碑曽根崎川はかつて堂島川から分かれてここから少し南寄りのところを東西に流れ、俗に蜆川(しじみがわ)ともいわれていた 元禄年間に河村瑞軒がこの川を改修してから堂島新地・曽根崎新地が開かれたそのころの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々のつどうところとして親しまれこのあたりからは北野や中津の田畑越しに北摂の山々が遠望でき夏の夕べには涼み舟がこの川からこぎ出たという近松門左衛門の作品には堂島新地・曽根崎新地を舞台にしたものがあり なかでも「心中天網島」(一七二〇の作)の一節名残の橋づくしには当時曽根崎川にかけられていた難波小橋・蜆橋・桜橋・緑橋・梅田橋の名がたくみにとりいれられている。しかしこの曽根崎川も明治四十二年(一九〇九)の北の大火後に上流部 ついで大正十三年(一九二四)には下流部が埋立てられ 昭和二十年(一九四五)の戦災でこのあたり一帯は焼失したが 今日では北の新地としてにぎわいをとりもどしている。
曽根崎川(そねざきがわ)は、大阪府大阪市北区・福島区にかつて存在した河川である。別名は蜆川(しじみがわ)。
江戸時代は、しじみ川とも言われてたようです。
名前 |
曽根崎川跡碑 |
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ジャンル |
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住所 |
〒530-0002 大阪府大阪市北区曾根崎新地1丁目5−31 |
HP | |
評価 |
3.8 |
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こんなところに昔川があったなんて信じられません。