歴史の息吹感じる農人橋。
農人橋の特徴
農人橋は大阪城外堀にかかる歴史的な橋です。
江戸時代には幕府が管理していた公儀橋でした。
不定期で珍しい作業風景が見られる場所です。
橋長:上流側33.14m・下流側32.00m/幅員:上流側18.35m・下流側18.35m形式:桁橋/完成:昭和44年/行政区:中央区/河川名:東横堀川。
交通量の多い橋です。
古い歴史のある橋。大坂では数少なかった御公儀橋(幕府直轄橋)。農民が農作業のために渡るため、この名前がついた、と橋名顕彰碑に記されています。以下、顕彰碑の全文(漢数字と句読点は、変更・追加)。//---------農人橋農人橋はかつて大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かり、農民が耕 作に通った橋であったことからその名が付いたという。最初の架橋時期は不明であるが、慶長5 年(1600)の記録に見られる久太郎町橋がこの橋だといわれ、大坂城南端へ向う道筋に架かっていた。江戸時代、橋長30間(約54メート ル)、幅員3間(約5.4メートル)の農人橋は大坂城への直接の連絡であったため、公儀橋という幕府が直接管理する橋となった。その数は、天神橋や天満橋、難波橋など12橋であった。また、元和6年(1620)の幕府による大坂城再築のときの石材は、橋詰の浜に陸揚げされ城内に運び込まれた。その後幾度か架け換えられ、現在の農人橋は橋長約30メートル幅員約18メートルとなり中央大通りに架けられている。平成8年(1996) 大阪市。
東横堀川に架かる橋。短し。
「農人橋は、かつて大阪城の外堀として開削された東横堀川にかかり、農民が耕作に通った橋であったことからその名がついたという。」※詳しくは写真の説明をご覧くださいこの土佐堀川から流れ込む東横堀川は、そのまま道頓堀に繋がっている川です。この川は人工的に作られた歴史的な川で、そこに掛かる橋もまた歴史ある橋が多いです。
松屋町筋の交差点名にもなっている橋の名前です。歴史的背景の説明が、橋のたもとに書かれています。
ただ近所小川橋。(原文)그냥 동네 개천 다리..
江戸時代には幕府が管理する公儀橋の一つであった。橋名の由来について『摂津名所図会大成』には、「いにしえより農民が田畑へ往き通うための橋で、土橋と同じような形式であったが、寛永・正保の頃(1640年頃)までは船場には田畑や芦原などが多くあって、(中略)寛永年間、急速に発展していく。これに伴って橋も高欄擬宝珠をもった立派な造りとなった。」とある。公儀橋でも日常の維持管理は、橋周辺の町々に課せられていた。橋周りの清掃、船が橋に衝突したときの報告と船頭の拘束、橋の破損の報告などが義務付けられていた。農人橋の橋掛かり町の範囲は、東は谷町から西は御堂筋あたり橋筋の町々から成っていた。農人橋は明治の半ばに鉄柱木橋となったが、第1次都市計画事業によって大正15年に鉄筋コンクリートのアーチ橋に架け替えられた。現在の橋は中央大通の建設にともなって架け替えられたもので、阪神高速道路(東大阪線)を挟んで二つの橋から成っている。
農人橋農人橋は かつて大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かり 農民が耕作に通った橋であったことからその名が付いたという最初の架橋時期は不明であるが慶長五年(一六〇〇)の記録に見られる久太郎町橋がこの橋だといわれ 大坂城南端へ向う道筋に架かっていた江戸時代 橋長三〇間(約五四メートル)幅員三間(約五・四メートル)の農人橋は大坂城への直接の連絡口であったため 公儀橋という幕府が直接管理する橋となった その数は 天神橋や天満橋、難波橋など一二橋であった。また、元和六年(一六二〇)の幕府による大坂城再築のときの石材は 橋詰の浜に陸揚げされ城内に運び込まれたその後 幾度か架け替えられ 現在の農人橋は橋長約三〇メートル幅員約一八メートルとなり中央大通りに架けられている。
| 名前 |
農人橋 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
06-6615-6415 |
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.4 |
| 住所 |
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解説がないと普通の橋と見分けがつきません。橋の上から川を眺めても昔日の面影はありません。2024年1月17日。