東大阪を見守る、根気の象徴。
中甚兵衞記念碑の特徴
中甚兵衞の顕彰碑は今米公園内にあり、歴史を感じさせます。
近鉄東大阪線吉田駅からも近くアクセス抜群の立地です。
中甚兵衛の根気強さを讃える歴史的な空間が広がっています。
東大阪を代表する場所の1つ!
賑やかな公園をそっと見守っているようです。
中甚兵衞の何が凄いかと言われれば、私は先ず、彼の、ひとつの事を成し遂げる、その粘り強い根気を挙げる。50年に及ぶ江戸幕府に対する懇願の末、低湿地の河内平野は命をつないだ。頻繁に洪水を起こす大和川。その付け替え工事を、幕府はやっと承認したのだ。これによって、河内平野は洪水から救われただけでなく、多くの新田も生まれた。彼のひたむきな努力を、関西人はいささかも忘れてはいけない。
名前 |
中甚兵衞記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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中甚兵衛の顕彰碑は、近鉄東大阪線吉田駅の北側、今米公園の中に建っています。 中甚兵衛は、江戸時代の寛永16年(1639年)に河内國河内郡今米村の庄屋に次男として生まれました。 現在柏原市から堺市の方へ流れている大和川は、元々柏原市から河内平野を長瀬川、玉串川の枝川に別れて北流し、古代よりたびたび洪水が続き、河内平野北部の人々の生活を苦しめていました。 この様な状況下で旧大和川筋の村々の人々の惨状を踏まえ、洪水から川筋周辺の村々を救おうと立ち上がったのが中甚兵衛です。 長い運動の結果、幕府を動かして大和川の付替工事を実現させました。宝永元年(1704年)、川の付替工事が行われ、その功により幕府より名字帯刀が許され、中甚兵衛と名のりました。高さ約5mの粘板岩製の顕彰碑は、大正4年(1915年)陸軍大演習に際して河内の功労者に叙勲があったのを記念して建てられ、同年12月13日に建碑式が行われました。