古墳の神秘、旦椋神社へ!
旦椋神社の特徴
ここは城陽市にある旦椋神社で、宇治市の同名神社とは異なります。
後白河天皇の第2皇子、高倉宮以仁王に関連する歴史があります。
山の上に続く道の途中にある独特の立地が魅力です。
旦椋(あさくら)と呼ぶそうです。自動車で参拝するのは難しく、第2名神の急激な開発で大型車輛の通行が平日は多いので路駐は危険でしょう。鳥居を抜け参道は鎮守の杜に覆われ薄暗く、ある意味下鴨神社の糺の森に近しいのですが何故か陽の気ではなく陰の気が強く私の属性とは合わなかった様です。拝殿はあまり参拝者も運用されている方も少ないようで、本殿は美しい流造ですが、外側を別棟で覆われています。歴史的な発見もある様な地ですが、一寸荒れているようです。
この神社背後の古墳には、国内2例目の木造大将軍神像群が19駆が発見された所のようです。そした、神社には後白河天皇の第三皇子の以仁王か平家に追われ、ここで兜を脱いで休息を取った所と記されています。旦椋神社の別名はかぶとの社と言われるようです。
ここは城陽市の旦椋(あさくら)神社で、ここから5km(車で15分)ほど離れた宇治市にある同名の旦椋神社とは別の神社です。参拝者用の普通車の駐車場は無さそうです。入り口の鳥居⛩を背に、向かって斜め左前辺りは路肩に少し膨らみがあり、そこに片輪を乗り上げれば車1台くらいは停められそうで、また、神社の敷地沿いの西側の道路も幅員に余裕があるので数台は停められるでしょう。しかし、近辺は大型ダンプ車両の往来が多いので、交差点からある程度は離して停めましょう☝🏼それと、表の鳥居⛩の石柱の間隔が↔︎190cmで(余談: 車の幅の数値は通常ドアミラーを含みませんのでご注意を☝🏼)、下を潜って少し進むと「車止め」と書かれており、よく見ればそこまでの間に3~5台くらいは停められそうなスペースがあり、2台分のスペースには後輪の輪止めとなる朽ちた丸太も横たえられていたので、‘軽自動車’であれば中へ入れて停めてもよいということなのでしょう。境内は鬱蒼とした鎮守の森で無人です。あまり情報が見当たらない神社のようですが、入り口付近の立て看板に、ここが古来この地区の産土神であり、また、昔に日本史でその名を聞いたことがあったような以仁王(もちひとおう)なる平安時代の皇族が、甲冑を脱いでここで休んだことも由来としているような解説もあり(ここの地名も甲畑)、御際神もこの御仁というよりは、その冑(かぶと)を祀ったものか?🧐現在この城陽市東部丘陵地区一帯は盛大な土地開発が行われており、2023年に開通予定の新名神高速道路沿いに開業予定の、京都城陽プレミアム・アウトレット(仮称)の建設予定地がこの神社の直ぐ目と鼻の先まで迫っており、今回は辛うじてそのゾーンからは免れたようですが、この周辺一帯の今後の様変わりのしようは物凄いでしょうね。
車で訪れられる方には少し行きにくいところかもしれません。駐車場がなく、トラックの通行量も多いので。ですがほんの少しの時間ならば、鳥居の近辺に停めて参拝できると思います。ただ大型車だと厳しいかもしれません。こんなんを言っときながらなんですが、ここの神社さんはスゴくいいです。スゴくいいの捉え方は人それぞれなのですが、私の第6感が導いてくれたこの場所。それは神様と魂の会話を読み取れたから。もしこの投稿を見られて行きたい、参拝したい、、そう感じられた方はきっと貴方貴女方の魂と神様との会話を読み取れたのでしょう。私の投稿はあくまでもただの点そのただの点投稿が貴方貴女方の道標の一欠片になれたなら光栄です。
後白河天皇の第2皇子高倉宮以仁王は治承4年(1180)平家追討の令旨を出して挙兵したが、宇治川合戦に敗れ南都に逃れる途中、光明山寺の鳥居前で流れ矢にあたって戦死した。その遺骸を都に送る途中、以仁王の冑がこの辺りで落ちたのを村人が密かにしまっておいたところ奇怪なことがしばしば起こるので、以仁王を祭神として冑を祀り冑神社と称したという。明治になって旦椋神社と改称した。
山の上に続く道の途中にありました。参道にタイヤ跡がありましたが駐車場そのものはありませんでした。社務所はありましたが普段は無人のようです。
山の上に続く道の途中にありました。参道にタイヤ跡がありましたが駐車場そのものはありませんでした。社務所はありましたが普段は無人のようです。
名前 |
旦椋神社 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.6 |
周辺のオススメ

ここも立派な勧請縄があります。雰囲気も良い神社さんでした、またお参りに行きたいです。