静かな公園に残る槙島城の歴史。
槇島城跡(此の付近 槇島城跡 碑)の特徴
槇島城跡には、歴史的な石碑と説明板がひっそりと存在しています。
かつては巨椋池に浮かぶ島で、戦いの中心地として知られていました。
足利義昭が信長に抵抗した、室町幕府終焉の地として重要な意味を持ちます。
かっては槙島は巨椋池に浮かぶ島だった。足利義昭が立て籠り、織田信長によって攻め落とされた。細い路地に面した公園にあるので、後続車が来る前にまた急いで写真を撮って退散した。
何でここにあるんだって感じの石碑。地図からでしか存在を見つけるのが難しい。槙島公園にも似たような史跡がある。ロマンはあるが痕跡は無い。
城跡の痕跡はありません。石碑の場所は本丸でもありません。
槙島城の戦いの中心地が槙島城です。元亀4年〔1573年〕2月から7月にかけて織田信長と室町幕府代15代将軍足利義昭の戦いです。義昭が敗れ京都二条城から追放され室町幕府は実質的に滅亡しました。7月28日天正に改元されてます。お互いの利害関係が合わなくなると、反目するようになります。ついに信長と決別する事にした義昭は、信長に作ってもらった二条城に堀を作り、立て籠り交戦します。正親町天皇の勅命により、和解しますが、義昭みずから和睦を破り再び挙兵して、二条城を家臣三淵藤英に任せると、自身は槙島城に立て籠ります。槙島城は当時は宇治川の中洲にあり、信長は70000を二手に分け攻撃し、12000の義昭軍は降伏します。信長は、未だ将軍職にある義昭を許し、世間体を考えたといわれています。その後1576年鞆の浦に鞆幕府を打ち建ています。一方で安土には、安土幕府があり、二重幕府が存在したことになります。明智光秀は最初義昭に仕え、その後に信長につかえています。本能寺の変の原因のひとつになったかと思います。豊臣秀吉は、前将軍職にあった義昭は10000石の大名に取り立てました。アクセスは京都駅からJR奈良線で宇治駅北口から、右側に進み宇治川橋を右手にみて、川沿いに左折し途中国道24号を左折し、任天堂宇治工場の前を右折します。宇治駅から歩いて15分かかります。
住宅内で城が有ったとは思えない‼️
知らなかった‼️この城で、織田軍を迎え撃つとは❓でも逃げ足も早い将軍やね‼️
Googlemapと異なり、まっすぐつきあたり右手の公園の出入口右側に記念碑があります。
室町時代の終焉を飾った城ですがわざわざ来る所では無いと思います。伏見城築城などで正確な場所が分からなくなった城の跡ですので適当な公園に案内と碑が立っていました。説明には如何にも本丸の場所で有るかの様な(案)が説明されていますが、北西にある妙光寺は昔から茶畑がある下村と呼ばれていた地域で島状に少しだけ高くなっている所に集落が有りこちらの方が城跡らしく思えます。郷土誌には城の跡地は茶畑になったとの記述も見受けられます。
元亀4年(1573)についての『耶蘇会士日本通信』では、昇天祭の2日前(3/27)、信長既に近江の国に在り、不日都に来るべしと伝えられたれば、公方様は直に兵士を城内に入らしめたり。彼の主たる救援は丹波の領主ジョアン内藤殿にして直に城内に1,700の兵士を率いて城に入り、池田及びタミオク(丹波国人宇津氏)の兵並びに公方の兵5,000内外も亦来りたり。内1,000余の銃手あり。橋は悉く引き城の周囲に旗を建てたり。此の城は3つの堀と数カ所の新たなる稜堡を備へ、日本に於ては陥落する事を得ざるものなりき。、とある。この時、摂津の国人池田衆も将軍義昭の将として、槙島城に入っているようである。
名前 |
槇島城跡(此の付近 槇島城跡 碑) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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住宅街の一角に児童公園があり、その隅に槇島城の石碑と説明板があります。この辺り一帯が槇島城だと書かれていますが、住宅街に変わっており、駐車場も無いので、付近を散策もできず、城の形跡は発見できませんでした。