戦争を超えた蓮如上人跡。
蓮如上人銅像跡の特徴
蓮如上人銅像は戦争で供出されたという歴史的背景があります。
戦前の大きな銅像があった頃の写真も見ることができます。
住宅地に位置し、雑草に囲まれた独特の雰囲気があります。
蓮如上人の銅像が鎮座してらっしゃったそうですが、戦争で供出してしまったそうです。お寺の梵鐘などが供出された話は良くみみにしますが何とも虚しい話です。
8代蓮如聖人の大きな銅像があったらしいが、太平洋戦争で供出され今は、台座だけ残る寂しい状態。現在は、可成り小さくなった銅像が東御坊の本玄関前に安置されている。
銅像跡をしばらく眺めていると、向かいの家の方が、銅像があった頃の写真を家の中から持ってきて、見せてくださいました。
住宅地の一角に雑草が茂った空き地のようなところにある。かつて像があった。石造りの台座だがけが残っている。台座だけでも2階建ての建物より高そうだ。この石積みの台座と門柱などがあった。像もなく、銘板のようなものも取り払われ、魂が抜けたような感じだった。ただ、取り払われていない銘板が、石積みの台座の裏側の高いところにある。高いところなので、はっきり読めなかった。タイミングがよければ、像があった頃の写真を見せてもらえるかもしれない。行ったときはタイミングよく、写真を見せてもらうことができた。像も石積みの台座と同じぐらいの高さがありそうだった。残っていれば、すごいだろうなと思った。戦争で拠出された。そのあと戻ってくることはなかった。
思いの外大きいです。でも説明板もないので何かわからないですね。
意外と大きかった。
【京都市の資料より】蓮如上人銅像跡東西両別院の中間に、蓮如上人立像跡があります。この立像も戦時中の昭和19年(1944)に「供出」のためになくなってしまい 今は台座のみが露呈しています。この立像は、昭和9年(1934)9月の完成で、石の台座の上に全体を合わせると高さが10メートルにもなる大きな像が建てられていたといいます。東御坊・西御坊と御廟所の関係でこの地点に設けられました。建立者は江戸時代の由比正雪の子孫(卯三郎氏)といわれ、黒岩淡哉作、高村光雲が顧問でした。いまは土台の石塔北裏に刻銘されたプレートがわずかに往時を偲ばせています。像が供出された当時、地元の人たちは「蓮如さんも戦争」に行ってしまわはった とたいへん残念がったと言います。
名前 |
蓮如上人銅像跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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銅像跡でも存在感がすごいです。