真田一族の歴史を辿る。
真田一族之墓の特徴
案内板のない静かな場所で過去を感じることができます。
武田軍の武将たちに関連した重要な遺跡です。
真田信綱・昌輝兄弟の墓所がある歴史的スポットです。
真田信綱・昌輝兄弟は武田信玄公に従属した信濃国衆・真田幸綱の長男と次男です。その他に3男・昌幸、4男・信昌(信尹)、5男・高勝がいました。兄弟の父・真田幸綱は「幸隆(ゆきたか)」の名前でよく知られていますが、確実な史料からは「幸綱」と名乗っており、「幸隆」は出家後の名前で「こうりゅう」と読む説が有力です。残された書状から、永禄12年(1569年)頃に幸綱は隠居して長男・信綱に実権が移ったと考えられており、天正2年(1574年)に幸綱が死去した後に信綱が正式に家督を相続しています。幸綱が武田信玄公に従属してから真田家は戦功を重ねて、信綱の頃には15,000貫文(現代の金額で約15億円)の知行を得ていたそうです。また武田氏は従属した国衆に偏諱(1字)を与えて絆を深めており、どの字を与えられたかでその家の家格を測ることが出来ます。真田信綱の「信」の字はその中でも最上格で、譜代家老に匹敵する程だそうです。「甲陽軍鑑」によると長篠合戦において、真田兄弟は馬場信春、土屋昌続、一条信龍、穴山信君らと共に右翼を担当しています。武田軍右翼はまず馬場信春が700の手勢で織田軍の佐久間信盛の兵6000を柵の内に押し込め、そこから真田兄弟と交代します。織田軍が柵の外に出てこないため真田衆が攻め立てて1つ目の柵を破りますが、その間に多くが討死。「甲陽軍鑑」ではこの時に真田兄弟も討死したとありますが、長篠合戦に関してより信頼度の高い「信長公記」の記載から全軍退却時の討死とする説もあります。実際にこちらのスポットのお墓は武田勝頼公の退却路の側にあるため、個人的には「信長公記」の記載の方が正しいと思われます。真田兄弟の他に、従兄弟である河原正良、河原正忠、常田図書助永則の3人と、親族である鎌原重澄らが討死しています。従兄弟3人のお墓は当初は信綱・昌輝のお墓から少し離れた場所に建立されていたようですが、現在は再建されて真田兄弟のお墓のすぐ横に並んでいます。その後の真田家は、信綱・昌輝の子供がまだ幼かったことから、武藤家を継いでいた昌幸が真田家に戻り真田昌幸として跡を継いでいます。これは武田勝頼公の指示ではありましたが、家臣の反発を避けるために信綱の娘を昌幸の嫡男・信幸(後の信之)と婚約させており、信幸の子供の代で当主に信綱の血流が入る配慮がされています。
真田一族之墓に行くまでの案内板はありません。ナビ頼りになります。駐車場はありません、田んぼの狭いあぜ道を通る必要があります。
武田軍の武将。信濃先方衆である真田一族も参戦。真田信綱・昌輝兄弟の他、多くの一族も討死。
| 名前 |
真田一族之墓 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死した真田信綱(のぶつな)と真田昌輝(まさてる)の兄弟の墓所です。2人は信濃国の有力国衆・真田幸隆の息子であり、有名な真田昌幸の兄(真田信繁/幸村の伯父)にあたります。武田軍の重臣として出陣した両将は、織田・徳川連合軍の馬防柵を突破しようと突撃を敢行し、壮絶な討ち死にを遂げました。戦死した地とされる場所の近く(設楽原決戦場周辺)に、信綱と昌輝の2基の墓碑が並んで佇んでおり、真田一族の武勇と悲劇を今に伝える史跡として大切に守られています。