平重衡ゆかりの静かな公園。
平重衡塚の特徴
平重衡は源平合戦の名場面に関係する史跡です。
住宅街の中に静かに存在する趣のある公園です。
平重衡卿の墓とされ、多くの歴史に思いを馳せられます。
旧奈良街道歩きの途中で寄り道。綺麗に整備されてました。梅の眺めながら昼休憩しました。馬《●▲●》助ヒヒーン♪
石清水八幡宮駅から宇治方面の電車に乗換、六地蔵駅からバスで石田バス停で降り歩いて5,6分、↓の書込みを見ると昔は長屋だったそうですが今は団地前の公園、斬首された木津川はこの時、やや時間無く供養塔も新し目だったので此方へ、正妻の藤原輔子が首も引き取り此方に供養したとか。wikiの最近の説では南都への放火は戦術上必然で故意のもので一の谷の合戦後三種の神器と交換の講和条件は平重衡本人が言い出したとか必ずしも聖人では無かったようですが埼玉県本庄市に捕虜とした庄氏の建てた供養塔が有りました。周囲に醍醐寺、明智光秀の小栗栖の藪等が近くにあるとか、帰りは六地蔵駅まで歩いて35分位、京都駅まで4,5駅また六地蔵駅は何か既視感があり京都アニメーションの黙祷をしました。
平重衡は平家の大将として捕らえられ、南都に引き渡される時にこの付近で奥さん達と別れを惜しんだとの事らしい。その後、木津川で処刑されて引き渡され、「法界寺」で供養されたとの事らしい。都の山の東側のこんな所は以外と昔は街道筋の良い所だったのかも?。そう言えば「坂上田村麻呂」の墓も山科に在リました(歩いて偶然遭遇した)。パンフレットの地名に成った「合場」(合場川)は判りませんでしたが、きっとこの辺りなんだろか。
今、教法寺の役をやってます。その都合で、近くを通っただけ。
住宅宅地の中、きれいに掃除行き届居てます。
平清盛の五男(四男とも)云われる人物の埋葬の地だそうです住宅街の中で公園のような形で残っていました道路も近いので見つけやすかったです。
南都焼き討ちで有名な平重衡の墓所とされる。焼き討ちが必然なのか偶然の結果なのかは分からないが、重衡自身は平家にあってとてもユーモラスな紳士で美男だったそうです。一帯は「やすらぎ公園」という名が付けられており、周りが開けっ広げていることから陰気な感じは全くしなかった。
子供の頃、ここは長屋の裏にあって誰も注目してなかった。何十年も前に、私が生まれる前有名な作家が来たらしい。墓石に洗濯物を吊るしていたとも聞いています。なんとも重衝公には失礼な事と思います。今は市が立派になっています。
こんなところに平重衡が在るなんて流石京都やなぁ❗️閑静なのもいいですよ🎵
名前 |
平重衡塚 |
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ジャンル |
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住所 |
〒601-1345 京都府京都市伏見区醍醐外山街道町15−10 |
評価 |
4.0 |
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平家物語の名場面、源平合戦の頃、文治元年1185年6月、源氏に生捕りされ南都に連行していかれる途中の平重衡と、北の方・大納言佐とのこの世の最後の別れのシーンの舞台となった場所といわれています。北の方の屋敷跡の伝承がある場所です。平重衡は、平清盛の5男で、母は正室の平時子。風雅な貴族風のお坊ちゃまでした。源氏側についた南都諸寺を焼討する大将となり、出陣。東大寺と興福寺等はほぼ灰燼に帰しました。(現在、東大寺の奈良時代から残る建築物は転害門や三月堂等ごく僅かです。)そのため、南都仏教勢力に重衡は仏敵として強く憎まれ、南都への引き渡しを強く求められていました。到底生きて帰れる可能性はなく、連行される途中、重衡のたっての希望で、妻北の方の隠棲するこちらに立ち寄り、涙の最後の別れをします。平家物語には合場川(旧名・阿以波川)も出てきます。地元の伝承では、この合場川のほとりで夫婦が再会したともいわれているそうです。いずれにしろ、この辺りです。その後、重衡は奈良の手前、木津川の河原で処刑され斬首されます。源氏側が処刑完了を確実に確認する目的でか、南都への引き渡し前の予定より早い処刑でした。平家物語は文学作品ですが、北の方がこちらに墓を建てたとしており、一方、木津川畔にも、首を持ち去られ、放置された胴体を哀れんで地元民が近くに葬ったという塚が今も川辺の寺に残り、墓は諸説あるようです。一般に、昔は分骨したり、遺品や遺髪だけを埋めたりもしました。今となってはわからないですね。一方、北の方は、壇ノ浦の戦いで、安徳天皇の乳母として共に入水、はからずも源氏に引き揚げられ、宮中で見知ったまわりの多くは海の藻屑となりました。なんとか京に戻り、ここ日野の里で侘び住まいの北の方でしたが、今度は相思相愛の夫を若くして失うことになり、ここで暮らした彼女の日々の絶望は計り知れないでしょう。なお、壇ノ浦での彼女に関する各種記述は、帥内侍と混同されている説もあるようです。こちらの現状ですが、他の方の写真にある通り、完全な五輪塔と、一部のみの五輪塔の残欠がいくつか並んでいました。形式的には同一のようです。そして、私が拝見した限り、五輪塔にはどうやら「應永」の字が刻まれているようです。應永年間とは、室町時代の年号(1394-1428 北朝は後小松天皇の治世)になります。何分、古い刻字ですので、「もし見間違いでなければ」ですが、おそらくは南北朝期の設立の後世の供養塔なのかも??という印象を受けました。いずれにせよ、時代がありますし、中世の大変貴重な遺蹟です。周辺は住宅住居エリアですので、どうぞお静かにお参り下さい。